垣生の農業

 垣生を一口に言うと大部分が山で耕して天に至る(垣生山は百米程の丘と言ってもよい高さなので言葉としては大袈裟だが)と言ってもよい垣生山を山の隅々迄耕して農地とした。だが農業以外にたいした仕事の無かった時代だから狭い耕地から如何にすれば多くの収穫が得られるかという熱心から精農と言われる人が多かった。農地を求めて東は楠崎の近く西南は東雲の南辺迄遠い道程を苦にせず耕地を求め農業に精を出した。(自転車の無かった時代耕地まで一時間も歩いての農作業大変だったと思う)

耕地少なく現金になる仕事の少なかった、明治大正迄は長男以外は垣生を出て他の地で働く者が多かった.そこで出ていった地で馬鹿にされないようにとの親心か学問をさせたり、技術を身につけさせる様にした.その上歯切り噛みになるよう育てる人が多かった。で、昔「垣生の人が通った跡にはペンペン草も生えん」と一部の人に嫌われたとか。

「小便がしたくなると少々の道なら走って自分の畑に放尿したもんだ」と話してくれた年寄りがいた.こんなにまで目を詰めて働かねばならなかった垣生を今のように住みよい垣生にしてくれた人達に感謝しなければなるまい。

 垣生の農業について先ず挙げなければならないことは、湿田が多かったことだ.通称 新田 前新開方面は殆ど湿田で耕作に大変苦労した。極端に深い湿田もあって大人の股に達する程深いところもあった。(今NHKのラジオ放送局塔の在る付近は特に深かった)湿田の水に悩まされた反面二毛作(稲麦)を耕作していた農家は用水に苦労した.水は遠く船木の池田の池の水を使ったが充分でなく田の枕に井戸を掘ってその井戸から水かい桶で一杯一杯汲み上げた

一反の田に水を一杯にするのに一日は掛かったこともある。(桶は大体18リットル) 田の上から垣生にかけて打抜を抜いて自噴水を用水にしていた.打ち抜きは戦後自噴水が枯れて止んだ。揚水池を掘って水を今の様にポンプで汲み上げる様になったのは大正の末頃からだった.

 高丸に揚水池が掘られモータのうなりと共に水が川一杯に流れ出した様子を見た農夫はこれで水かいの苦労が無くなったと小踊りして喜んだという話が残っている。続いて田の上 馬場さき 水門等次々と揚水池が掘られ用水の心配が殆ど無くなった。

湿田の稲刈りの苦労は大変だった。アテ(一メートル四方位で高さ二十センチほどの函のようなもの)に稲刈りを刈って置き一束刈れると、それを担いで田より出した。膝まで埋まる湿田を歩くのも大変だったのに重い稲を担いで出す労力は今想像できないだろう。経済に余裕のある農夫は、田舟を購入し、何把も刈って田舟に乗せ田を滑らせて一度に沢山運んで出した。この湿田も、昭和30年頃より客土をし排水溝が整備され現在のようになった。

米作のほか山畠や土地の高い所では、値の高い作物を研究して耕作した、いちび・綿・たばこ耕作を経て、大正に入って桑を植え養蚕に力をいれるようになった。大正の中頃、垣生山が殆ど桑で埋まった。繭の生産も多く、繭の取引所(エビス坐)が建設されたりしたが、今度の戦争でぴったりとやんだ。養蚕の話の中に、蚕の育ちが予想外によく、桑がたりなくなって、八方手を尽くして、周桑郡の田野迄荷車を引いて買いにいったと。(朝暗いうちに家を出て桑を買って帰えったら夜中であったとか)桑の話しがでたとき、桑の実がうまかった(おいしかったこと)と言う話がでて、おやつらしいおやつの無かった時代、子供にとって桑の実はなにものにもかえることのできないおやつであった。あの甘づっぱい桑の実を、シャツのポケットが紫に染まり母親に叱られるのもかまはす、堪能するほど食べたものであった。

米の多収穫を狙っていろいろ研究した。先ず田植えの工夫をした.それには正条植がよいという結論をだしたのが明治四十年近くであった。(それ迄は田植えはバラ植で定規などをあてないで勝手に植えた。バラ植は風通しが悪く除草しにくく、肥料を施すにも不都合が多かった。その上病虫害もよく発生した.)正条植はよいのだからとすすめても頭の固い連中は中々実行しなかった.特に湿田等を耕作している人は、定規をあてての田植えをやろうとしない人がかなりいた。そこで警察力の導入になって警官が(当時は巡査さんといった)田の畦に立ってサーベル(当時は警官はサーベルを腰に吊ていた)の音をさせながら、正条植をさせた。違反者は田植のやりなおしをもさせたものだったと.

 米の多収穫のひとつとして、品種改良の研究もした.今迄どんな品撞を耕作したか話してもらった。優良品種・北海道ゆうな.赤北海道・金時・大いが・伊賀より.中太より・神力・松山・金まぜ・満戸穂波・笹より・瑞穂・千石・愛得・玄吉より(垣生の人で農業に熱心だった玄吉さんがよりだした品種)博多よりなどあげてくれた。次々と品種改良してすこしでも多く収穫しようと努力した.

稲架で稲の乾燥を始めたのは大正より昭和に移った時くらいからです。それ迄は米俵の稲を刈ると、すぐ万力でこいで、ムシロで天日乾燥をしたもんです。(天候によるが三日か四日乾燥する日による)乾燥ができると籾摺(もみすり)りをした。一メートル籾摺りは臼造りから始まった。臼は竹で編んだ目に赤土を練って入れ、それに樫の木を臼の歯に植え籾摺りをした。籾摺りには6人以上の人がかかった。(籾出し・籾入れ・摺人・唐箕・掬い込み等)休むのは食事の間だけ。籾摺りに大体米一俵、費用としてつかった。(籾摺りには牛肉を買って御馳走した、大正の頃牛肉百匁十六銭位であった.)籾摺りが終ると近所へ籾摺飯を配った.又夜小さな宴会をした。籾摺りに動力(農発)を使うようになったのは大正10年頃であった。籾摺りの時若い衆が内緒した(米一俵を隠して後で売って小遣いにした)農作業に欠かせないムシロは今のようにセメントの無い時代、地面にムシロを敷いて作業するためどうしても欠かせない敷物であった。ムシロは大体畳一枚の大きさで農夫が葉で織りあげた.(細い縄四十八本を縦にして織った)

 稲刈りは大正の中頃迄は今より大分遅かった。時には氷を踏み割って湿田の稲を刈った事もあった。(さぞ冷たかったことでしょう。)田の用水が自由になって今の時期になった。農夫にとって一番恐ろしかったのは、稲の病虫害であった。それにかからないようにと、神仏の加護も求めた。田の枕に神様等の虫除けの札を立てたり、神様等の火を貰って来て、其の火を松明に移して稲田の上で振ったりした。(今のように農薬がなかった)誘蛾灯が灯されたのは大正の終り頃、(誘蛾灯は始めカンテラに灯油を入れて灯した、それを電灯に替えたのはずっと後)。

 米作で多収穫を望んで、肥料をどんなに施し、それをどんなにして手にいれたか。先ず道端や田の畦(あぜ)の草は手まめに刈って堆肥を造った。牛の糞の混じったウシヤゴエ等は、貴重な肥料だった。経済力の乏しい農夫も、(背に腹をかえれないという気持ちで)金肥をかなり施こした。金肥には、さなぎ粕(かす)・大豆粕(大豆粕は始め1メートルほどの円盤状で輸入されそれを粉にして施した)・ほしか等があった。それを肥料屋て購入した。肥料代は現金買い以外は借金として金利を払った。肥料代の利息は高く月二割だったとか。其の上お金を払う時メザシとか下駄等を持っていった。百姓は貧乏するようになっていた.辛かったとこぼし乍ら話てくれた人もいた。化学肥料が使用されたのは昭和になってからでした。

ここて゛改めて米作りについて話てくれたことをまとめると。先ず苗床つくり(ノトコともいった、苗代は多く浅い湿田に水蒔きをした、雀にやられないように、充分水を張った.)苗がかなり成長すると、メイ中駆除をした。当時小学絞の子供が午後メイチユウの卵や蛾をとって役場へ持っていって買ってもらったことがあって、苗が育つと田植えをした。田植えを始めるとき三盃おろしといって豊年を神様に祈った。田植えの時してはいけないことと云われたことは、苗をくくった藁(わら)は必ずほどいて延ばしておけということでした。(苗を抜いて丸く輪になった侭(まま)の中苗を植えると植えた人が病気になるといって戒めた。)又浮き苗をすなときつくいわれた。田植えが終ると、三盃あげをした。三盃あげにはご御馳走をして神様を祭った.そして労苦を労った。苗がありつく頃より田に草が生え出し、辛い田の草取りがなされた。除草機の無い時は四つん遣いになって草をとった。それは苦しい労働であった.田の草取り歌を歌って草を取った。昔仕事のときよく歌を歌った(労働歌。)その中のい<つかの歌詞をあげてくれた。

○いけばほんだい、戻れば馬場、なかのよりふりなけばよい.

〇垣生の塩売り、我が子を知らぬ、朝は夜に出て夜に戻る

○好いて好かれて暮らすも縁よ嫌で暮らすも時の縁

○ここで米買うて利は無いけれど娘見たのは利でござる。

〇酒はなんぼなとおあがりなさい、あとて゛すいきよはなさるなよ

○去年盆まで踊った殿は、今年は新盆水祭る

○お前嫌うても又好く人は、無けりや私の身が立たぬ。

○今夜ここに寝て明日の夜は何処よ、明日は田の中畦枕(あぜまくら)

どれをみても昔の生活がわかるように思います.稲が実のり、稲刈りをし、乾燥して籾摺り(もみずり)をしたがこのことは重複するので略します。

垣生の塩田

垣生の塩田は随分昔からあったらしい。弁財天の塩田は奈良時代からあったとゆう人がいる。前浜の塩田は浜中辺りから拓(ひら)かれたのではなかろうか。浜中・二開浜・三関浜などの地名からどうも塩田があったのではないかとも思はれる。(或家の記録に次のような文章がある・・・彦左衡門大いに力を落とし故郷に帰る力無く此の垣生邑に心を止め土民となり塩浜を開発し、寺庵を建立す、頃は慶長13年(1608)若し此れが正しいとすると江戸時代の始め頃浜中に塩田ができたといえる。

 浜中に続いて前浜が出来たらしい。遠浅であった海を開拓して塩田にしたのは江戸の時代にはいっての後であったろう。弁財天.前浜を合せ塩田が二十軒あった。弁財天の塩田は大正の始に廃止し、前浜は昭和5年に廃止した。前浜が廃止される直前の塩田には釜屋が8軒あった。(勘左衡門・三開・江端・二軒・三軒・新田・庄兵衛・樋のロ等の名で呼ばれていた。(そのうち二軒・三軒・江端は二釜づつあった)入海に樋門は7つあって潮水を適当に入れた。

塩田の作業

 ア 浜起し

   地場に撒いたイレガイ(細いすな)を馬鍬(ばくわ)をひっぱつて塩がよくつくようにすることを浜起しといった.浜起しの馬鍬(ばくわ)引きは大体五回引いた。

 イ イレガイあつめ 

   塩のよくついたイレガイを集め沼(ヌイ)に入れ塩水を掛け濃度の高い塩水を造り其の塩水を桶で担ってだいつぼ迄運んだ。(後樋の様なものを地場の端に造り担う距離を短くした)

 ウ だいつぼ

   だいつぼは塩水を溜て置くところで大体長さ十メ一トル巾二メートル深さ一メートル余りの壷で内がはを湿くい(赤土を石灰水で練ったもの)固めていた塩水が漏れないように大壷の修理を絶えずした。それを壷たたきといった。塩水がだいつぼに溜まると釜焚きをした。

 エ 釜焚き

   塩釜は約三メートル角でそこは約三十センチ角で厚さ二センチ位の石(釜石といった)釜石を、釜の底に敷詰めしっくいの様なもので固めて釜を造ってそれにかんすいを入れ下から柴などを燃料にして焚いた。かんすいが塩になるまでに二時間半位かかった。大体塩の結晶が出来ると掬いだし暫くすのこの上に置いて乾かし塩俵につめた。(燃料が柴から松の小枝に変わり大正の中頃から石炭になった。其の頃より釜は鉄釜になった。石炭のことをごへだ(五平太)ともいった。石炭に燃料が使はれだして、釜焚き作業が大変楽になった。塩俵からかますに変わった)

☆塩のあれこれ

 ○垣生の塩が味が好かったので遠く広島迄積出した。香川県の上等の塩を讃岐垣生と言ったこともあると言い伝えがある。

 ○塩釜は20日位焚くと、築き直しをした。理由は釜に垢がつくので、垢がつくと火の効率が悪くなるからです。のけた垢をカマガラと言って肥料にした

○沼(ぬい)四つで一軒前といった。(地場の広さは12アール位だったそうです。)

○味の悪い(質の悪い)塩をサンシオといった。

 ○上荷の舟が垣生に八隻あった。上荷の舟は、柴・松葉等を積んできて、帰りには塩を積んで集荷所に運んだ。上荷の舟は満ち潮の時、南は唐樋、中は今の消防のポンプ置き場の側まで入ってきた。

 ○垣生塩田の荒れ始め。宝暦九年(1759))又野川の改修等で海水の濃度が薄くなり前浜がだんだん荒れ浜になった。その為、塩の質も悪くなり衰えてきた。

○幕府時代運上として四斗俵三七五俵納めた。

○前浜は殆ど元神郷の土地であったが浜持ちは田の上の人一人であとは垣生の人であった。

 ○塩売り 塩田で生産された塩を垣生の人が売り歩いた。(専売制になる前)東は寒川、西は小松辺りまで歩いて売った。そこで次の様な歌が残っている。

  垣生の塩売りは我が子を知らぬ、朝は夜出て、夜になって帰る。

 ○イレガイは海の底の細い砂を取って使った。イレガイを専門に取った舟をイレガイ舟と呼んでいた。イレガイを取るのはかなり重労働であった。

○垣生の塩田

 慶長十三年(1608年)に垣生の塩田が拓かれたといわれている。(前出) 瀬戸内海沿岸に昔十州の塩田があったが入浜式塩田としては最も早く開けたところ。(多喜浜の塩田は享保八年−1723)に天野喜四郎等に依って開発されたそうだが、垣生の塩田はそれより100年以上も早くに開発された古い塩田である。300年余りこの塩田と垣生の先人との生活の関わりりあいについては、いい伝え以外史料がまだみつかっていない。


○西条誌に載っている「垣生の塩田」西条誌に書かれている事を分かりやすく書くと、(垣生に)塩やく家20軒あり.南北二カ所に分かれる.北を弁財天浜といい、9軒あり。南を前浜といい11軒あり。この前浜の方の土地は、松神子村分へもかかる。前浜・弁財天、二浜とも定御運上にて、四斗入り三百七十五俵、銀二匁八分俵にてこの銀一貫五十目、定式の運上也。

 当所の塩浜古く開け、加藤左馬介殿時代より、運上銀上納始まる.(庄屋良太郎が家の古帳に見ゆと) 当所の塩、多くは産せざれども、性味よきを以て、昔は芸州広島にてこれを用ゆ。然れどもその足らざるを以て、今は讃岐より積み廻す。これを讃岐垣生と称う。当所より行くは止みたり。当所より今は大洲あたりへ積む。と

塩焚く建物を垣生では釜屋と呼んでいた。一軒の釜屋では、その釜で煮るかん水をつくる地場の広さは元禄(1700年ごろ)以前は大体五反(約50アール)くらいであったそうです。それをもとに考えると弁財天浜は九軒ですから広さは凡そ四町五反位もあったことになり。前浜は11軒あったので五町五反<らいあった。合計十町より幾らか広かったようだ。

 垣生のこの十町余りの二つの塩浜にかかる運上銀(今でいう税金)は年産量に関係なく、一定額を納めるようにし、四斗入り塩俵一俵の値段を銀二匁八分の375俵代として銀一貫50匁だったそうです。この運上銀は加藤左馬介嘉明の頃から納めたらしい。それを考えると垣生の塩浜は随分早くから開けていた証拠としてよいと思う。

加藤嘉明は安土桃山・江戸時代初期の武将で、通称は孫六といった。出身は三河で、(愛知県) 豊臣秀吉に仕え、賎が岳7本槍の1人。その功績によって淡路に領地を与えられて大名になった.又秀吉の九州征伐・小田原征伐に従軍し功によって、文禄四年(1595)伊予の松前六万石の城主になり慶長の役に水軍の将として奮戦し十万石に加増になった。関が原の戦いに徳川方に味方し、功によって十万石加増されて伊予の半分二十万石の領主となり。それより27年後の寛永四年(1627)会津40万石の領主として伊予を去った。

 加藤嘉明の慶長五年の加増の時「宇摩郡・新居郡内3万石」とあるようにこの時から新居郡内の大部分は加藤嘉明の領地になった。垣生の塩田の開かれ始めた慶長13年は加藤嘉明が領主と成って9年後のことになる。

 垣生塩が広島あたりへ移出されていたのは、「性味よきをもって」とあるように良質塩であっただけでなく、それ以外にも理由があったものではないかと思う。

 瀬戸内の中国筋(備中・備後・安芸・周防等)には有名な塩田が多<あったがその内最も早く入り浜式となったのが慶安3年(1650)に開けた竹原塩田であった。(それでも垣生塩田より43年も後で)富浜・三田尻等の塩田も延安から元禄(1677〜1699)頃て゛、これらはいずれも赤穂の塩田技術を導入したもので赤穂流入り浜式といった。(其の後開発された塩田は、これら先進塩田の技術を導入した赤穂流といったものであった。)

 垣生の塩田が開発された以後も、中国筋では中世から伝わっている揚げ浜式製塩が続いていた。塩の味・質の優れている上に価格の安いことで垣生塩が広島まではいっていったものと考えられる。しかし垣生で生産した塩だけでは広島の需要に追いつかなくなり、後には香川の塩を讃岐垣生と称して移出するようになったといい伝えがある。讃岐塩の主な生産地として坂出の塩田があるが、坂出の塩田は元和6年(1620)(垣生より12年後)赤穂の田中藤七等によって小規模な14町歩余りが開かれたと伝えられている。大規模な塩田は幕末から明治にかけて開発された。

西条誌に載っている讃岐垣生塩は、どのへんの塩田のものか今はっきりしない。

 ○垣生塩田の開発 伊藤彦左衛門  

  垣生の塩田の起源について関係のありそうな文献を調べると、「新居浜市史」に「垣生塩田の築立年代は不明であるが・・・」と西条誌を引用している。又新居郡誌には「神郷及び垣生村の塩田は反別も僅少にして、沿革上亦特筆に値せざるも・・」として全く起源には触れていません。其の他の郷土史関係の本や塩業関係の本にも取りあげていない。「西条多喜浜地方の塩田は元禄11年垣生村庄屋等によって開発された。(日本産業大系)にのっている。「村落産業の史的構造」 (昭和42年発行)や「伊予史談」に(昭和51年8月号に『伊予における塩田の分布と消滅過程』等に、垣生塩田は慶長13年(1608)伊藤彦左衛門によって開発せられたと明記してあると発表している。

  昭和七年四月新居浜町発行の「郷土研究」に『垣生塩田史資料』を載せています。