垣生のあれこれ あの部    () () () () ()

 ○藍玉    垣生では製造したことはない。泉川で造ったのを垣生の紺屋で買ってきて使っていたことがあったそうです。

 ○雨具   農作業の時はミノとカサ (タッコロバチと呼んでいた.竹の皮で造ったのが多かった.)を着て仕事をした。平素はカラカサを差して下駄(さし下駄といってはまが高くて細かった)を履いていた.下駄にはサキカワをつけて足が濡れないようにした.明治以前は和紙をなんまいも張り合わせしぶを塗ってミノのようにつかっていた。雨傘は始めは番傘だけだったがジャノメ傘が用いられるようになったり、コウモリカサは大正時代に少し使用したが昭和三十年代より急に多く使用されるようになった。下駄が雨靴に変わったのも戦後からでした.(ゴム靴は大正九年垣生に入ってきたが値段が高く普及しなかった。)雨靴も始めは総ゴムだった、が足が濡れないでとっても喜んだ.今の様に裏に布がついたのは戦後もかなりたってからだった.

 ○雨乞い  垣生ではしなかった。雨水をあまりあてにしなかったから。船木や中萩等の山でやっているのを見たことがあるとか。

 ○ありつけ 御嫁に行くとき幼児と言って女の子をありつけとして連れていき花嫁の近くの部屋に寝かし嫁さんがありつくようにした.

 ○    おやつとして子供にあたえた。自分の家で造る事もあった。飴売りもよくきた。ぼろかいがきてぼろ代のかわりに飴をくれることもあった。(ぼろかとは今の古紙回収業に似ている。)

 ○    栗は土地のやせた所にも良く出来た。栗は飯・餅等にして食べた、飯餅ともすぐ固くなって困った。

 ○あつけしたとき(日射病にかかったとき)  昭和の始め頃迄戸口患者を立たして、ミであおぎながら「あびらおんけんそわか」と呪文を唱えあとで静かに寝かして回復をまった。何故呪文を唱えるか今誰も知っている人がいない。

 ○味の素  昭和の始め頃より使用した.誰が言い出したのか、味の素は蛇を原料にして造ったといっていたことがあった。

 ○アンド  照明の一種(ランプより前に使っていた)種子油をトウシミに湿らして使った.子供を残して妻に去られた男を次のように歌った人がいたとか。
アンドに残した 針のあと  可愛い我が子を 抱き寄せて 男ながらに 貰い乳。
アンドがランプに変わり電灯にと変わった。(電灯が垣生にともったのは大正の中頃だった。)


 ○亜玲体操 大正の中頃より終わり頃迄盛んにやった。二つの亜鈴を持ってカチカチ打ならし体操した.亜鈴をしまう器具があった.亜鈴は学校の備品だった.

 ○アルヘイトウ
(コンペイトウのことらしい)
 

 ○遊び歌(子供の)草履隠しの歌    草履隠し くうれんぼ いやどか かどか かりまたのげんぱち すけどの さきのいたものはとくだ 等歌って遊んだ。

 ○遊び道具 紙鉄砲 杉鉄砲(いかりや 小路に杉があって実を貰いに行った) 水鉄砲 ゴム鉄砲 たこ 太鼓(四本の木で作って遊んだ) お手玉 竹とんぼ コマ

 ○あかりたて(地名)  

いの部 (上へ)

 ○悪戯    今の中学生の年齢の者が青年団に入団して間もない小若いしが次のような悪戯をよくしたと話してくれた。
夏橙ちぎり 砂糖きびおり 吊し柿とり 看板の置き換え(うどんやの看板を呉服やの入り口に置き換えるようなこと。) あじかの掛替(夏冷蔵庫がないのでご飯の残りなど(あじが)家と掛替て困らせた。あじかとはご飯を入れる篭のことです) 道に綱など張って通行人を転ばすことをいう。 大根等をいったん抜いて元のようにしておいて枯らしたりもした。

 ○医療   垣生には三木両家が医者として患者をみてくれた.今と違い保険等無く、病気になってもなかなか医者にかからなかった。栄養になるものをあまり食べず朝から晩まで働いたため、早く老けこんだ。

 ○衣服のあれこれ  
仕事着  男   普段着とよそ行きを区別して、モモヒキにキャハンを着用して仕事した。モモヒキはアサギで造った。 女  筒袖の着物にたすきをかけて
下着   男  六尺フンドシを締めていた。越中フンドシは大正になって、女  お腰を締めていた。お腰をフゴメといっていた。パンツらしいものをはいていたのは大正の末頃から殆どの衣服は自家製だった。綿を栽培して綿をとりそれを糸に紬ぎ糸を染め機織をして布にし縫って着物にした

 ○稲こぎ 始めマンリキで一握りづつこいだ。脱穀機が垣生で使用されだしたのは昭和十年頃から、脱穀機といっても足踏み式のものだった。

 ○家で祭る神様    
地鎮祭  家を建てる時土地を鎮める意味の神祭り。

立柱祭   家の建前の時一番始めの柱立てする時にした神祭り。
       しない家が多かった
        
上棟祭(上棟式とも言うことがある)
        家を建てるとき棟が上がったのを神に感謝の意味の祭
        り。         

氏見世   子供が生れて始めてのお祭に氏神様にこんな立派な子
        が新しく氏子になります.お守り下さいと言う意味。

初詣     昔は御参りが少なかった。(年が明けて初めての神参り
         )

七五三    昔は御参りが少なかった。昭和に成って少しづつふえ
         た。  

年賀      男女共六十一才(還暦)七十才(古稀)七十七才(喜
         の祝い)八十才(長八の祝い)
         八十八才(米寿の祝い)九十才(九十の祝い)九十
         九(白寿の祝い)百才(百の祝い)

年賀は長生きした祝いで除厄と意味が違うがそこをはっきりしない人もある。

 ○居なくなった身近な動物    
ショウカン(潮が引いた時砂地等をハゼに似た小さな魚が飛んでいた)
カタツメカニ(海辺にいたカニで片方の爪が大きかった)
ナガズボ(海辺にいた長いズボで湯が沸いて尻を割って吸って食べた)
タニシ(田に沢山いた巻き貝)
テナガエビ(小川に沢山居た手の長いエビ)
カブトガニ(海辺に沢山居た)
オコツカエル (庭の隅等に居て雨等の時に這い出ていた。)

 ○入り会の山  
垣生の人が燃料を南の山で取ってよいところを入り会の山といっていた。所は藤田の本家の南の谷と、尾根より南は阿島まで紫をかってもよいとされた。荷内の大谷、阿島の寺山のたきぎをとっても許された。入り会の山を入山とも呼んでいた.入山に番人がいた。時には荷をなかまで調べられたことがあったとか。

 ○池田の池 
垣生にも池田の池の水が田畑を潤した。この池は奈良時代に出来たといわれている。この池は百谷を受けていたが百谷を受ける池には竜が住むので神様は二谷隠して九十八谷にしたと昔の人が言っていた。池から垣生迄水を引いてくるのは大変だった。

 ○いしのくちをつく  
昔家を建てる時いしのくちをついいて土台を固めた。小さな小屋のようなものはたこつきをついて固め、少し大きなものはかめのこをついて固め、家の様な大きな建物はどぅずきを大勢で歌を歌いながらつき固めた。(歌は即興的なのが多く戯れ歌もかなりあった)


 ○稲きり. ナイキリともいい稲を刈る時稲を括る縄の様なもの 

 ○位牌   亡くな人の戒名を書いた木の札の様なもの。位牌が多くなると位牌倉を造って納めた。(位牌の字が古くなって読めなくなると茶で洗うと字がはっきりすると言う)

 ○井戸さらえ 昔は井戸は共同井戸が多かった.年に何回か井戸を使って居る人が集まって井戸さらえをした.

 ○いだや  桶やたらい等を造ったり、輪を掛替たりする商売をいだやとった。いだやは垣生に数軒あった.

 ○いやしりをきらう   
作物で連作を嫌うのをいった。エンド スイカ トマト ナスピ等は特にいやしりをきらった。エンドは三年連作すると一つもならなくなる。どの作物も多少はいやしりを嫌う。


 ○伊勢参宮  一生に一度は御伊勢参りをしたいと言っていた。伊勢参りには親類や近所からせんべつをくれた。お参りして帰るときお土産としてつぶらの万金丹等を買ってきた人が多かった。

 ○隠居   年をとって仕事がえらくなると隠居した。隠居すると選挙権が無くなった時代があった。同居したまま隠居した事があったが多くは倉等に別居した。

 ○石風呂  垣生の近くにはお宮の裏 久貢山の近所 水門の近所 沢津の海岸 多喜浜の切り抜き等に在った。石風呂は石の部屋の中で柴を炊き部屋が熱くなると濡れムシロを敷いて中に入って汗を流して辛抱した。石風呂に入ると冬風邪を引かないと言う人も多かった。石風呂は今は桜井の海岸にしかなくなってしまった。

 ○糸引の賃金 一貫の糸を引くと二勿の綿を賃金の代わりとしてくれた事を覚えていた人がいた。

 ○家の間取 平均的な間取は 戸口を入ると広い土間が有って土間の奥にカマド有る家が多かった。部屋が四つあって余間 座敷 茶の間 奥と呼んでいた。 余間は四畳 座敷は六畳 茶の間は板の間で四畳か四畳半 奥の間は四畳の家が多かった.(明治の時代迄部屋に畳をしかずむしろを敷いて居る家がかなりあった.)家の中にへんど隠しといって半間の壁を入り口につけ家に入ってすぐ余間が見えないようにしていた.土間の右手に穀物等入れる一部を造っている農家が多かった。一部には鼠が入らない様に色々工夫した。

うの部(上へ)

 ○運動会    小学接の運動場が狭かったので運動会は八幡様の境内を借りてした(昭和五年迄)大正時代迄運動会の服装は男子は白ネルの上下 女子は和服に袴をはいた姿で運動会に元気に参加した。中には女の子で走りにくいとお腰を除けて参加した子もいたそおです。運動会の種旧は今とそう変わらないが、いま見かけ無いものに亜鈴体操軍事教練等があります.
小学接の運動場が狭かったので運動会は八幡様の境内を借りてした(昭和五年迄)大正時代迄運動会の服装は男子は白ネルの上下 女子は和服に袴をはいた姿で運動会に元気に参加した。中には女の子で走りにくいとお腰を除けて参加した子もいたそおです。運動会の種旧は今とそう変わらないが、いま見かけ無いものに亜鈴体操軍事教練等があります.

 ○浦手   弁財天 今の垣生六丁目あたりの土地を呼んでいたことがあったとか。

 ○打ち抜き  垣生が自噴水得やすく田畑に水をいれるために打ち抜きを沢山抜いた。打ち抜きを抜くには、梯子(四間梯子を二本継いで七間四尺にして)それを立てそれに鉄の棒を添わして立てその棒の重い棒を上に上げころあいをみて落し其の重みで土に穴を抜いた。自噴水脈迄抜けると竹をつつこむと自噴水が得られた.打ち抜きのことをかたぬきといったこともあった.垣生には打ち抜きを商売にしていた人が三人いた.この人達は西条の氷見の人から打ち抜きを学んだ。打ち抜きも鉄管打ち抜きに代わり、梯子打ち抜きは昭和十年頃よりだんだん止んだ。

 ○氏見世 秋のお祭りの氏参りの日に、去年の祭から生れた幼児を氏神に氏子としてお参りすることをいった.大正時代まではお供えとして米 お供え(お共えとは鏡餅のこと)等を神様に供えて拝んでもらった。昭和の始め頃までは氏見世参りは夜が多かった。

 ○産着    特別のがなかった.藍染めの着物が赤ん坊の健康によいといって着せた時代があった。

 ○ウンカの駆除   昭和の始め頃迄は農薬が無かったので石油を竹の筒にいれ田に散布しそれを稲に振っ掛けて駆除した.

 ○   
垣生に牛を飼う農家が多かった.年は農耕に使うだけでなく牛のふんを肥料とした(藁を牛に踏まし堆肥とした)
牛を耕作に使うため牛が人間の言うことをよくきかすため牛にハナゴを入れた。ハナゴを一番始め入れるとき牛は痛 がるがハナゴを入れられると牛がおとなしくなる.

 ○ウナギ漁 御ウナギかきで泥のなかにいるウナギをかいてとった。又竹の筒や竹で編んだ細長い篭を沈めてウナギが入るのを取った。うきなわで釣ったり、穴釣りやかいどりなどしてとった.

 ○海に出て自分の位置を何によって決めたか。    
くいやい やまだてによって決めた。(今で言う三角測量の要領でやった)

 ○海の潮が引いたときひ潟で取れた海のもの。    
ガラメ ギラメ タコ オノカイ アサリ ハマグリ イイタコ ミヤコズボ スボ カラシズボ マルズボ ナガズボ イナ フグシラサエビ チヌゴ タイゴシンジャク 等

 ○受取りということ(仕事等)   仕事等に受取りと言うことがあった。例えば四人役かかる仕事を三人でして四人分の賃金を貰って三人で分けるようにしたり又子供が家の手伝いをするとき此だけしたらもう遊んでよい、と言って自由に遊ばし干渉しなかった.(この言葉は始め塩田でつかったという老人がいた。)

 ○牛のこと 牛に寄生虫等が付いたとき海え連れていって泳がした。牛の餌のことをハゴと言った。またハミとも言った。牛は麦が好きで好んで食べた。一体に動物は餌を好きなものから食べる.

 ○魚料理を膳に付けるときの心得 
魚の頭を左に、腹を手前に向けるようにして出せと教えられた.

えの部(上へ)

 ○エンコに命を取られた話    
子供が海水浴の時気を付けた。

 ○宴会で歌った歌   じょうさ節 ラッパ節 マックロケ節 ドンドン節 ギョツチョンチョン節 大津絵節 安来節 白頭山節 等

 ○緑起かつぎ  朝南天をみると縁起直しになるといった。

 ○映画の事 映画の前に幻灯会をよくやった。(七八十年前小学校で)日露戦争の写真をよく見た、映画になって西条の長楽館から出張してエビス座で月に一回位上映した。

 ○江戸絵  昔旅のお土産に江戸絵等を買って帰った。(軽いしかさばらないし)

 ○エビス座    大正三年建築、繭の取引所として建築したので取引所ともいった。株式組織で三十六株あって一株五十円だった.エビス座はもと恵比寿神社が有った所でエビス座と人が呼んだり このエビス座で小学校の色々な行事をした.(小学校に講堂が昭和三十二年に建築されてやんだ。)昭和三十五年商店となり。古くなって改築した。

 ○塩田の釜   始め釜石(方三十センチで厚さ三センチ位の切り石を鉄の棒張り渡した上に並べかん水が土で固め漏らないようにした。)で造った釜で炊いていた。(鉄の釜で炊くと鉄分が塩に混じって塩の質が悪く成ってしまうので鉄の錆が出ないように改良される迄釜石の釜を使っていた)

 ○遠足のお弁当  竹の皮でお握り等を包み其れを風呂敷で包んで男子は腰に巻きつけ女子は斜めに肩よりかけ胸のところで風呂敷を結んだ.子供が喜んだのはお握りをコーラで焼いたものだった。

おの部(上へ)

 ○大石    大石川口に聖徳太子が垣生においでたなったとき船から上がられた時踏まれた石だといわれる大石が有ったが今道路の改修したため見ることがむつかしくなっている。此の大石には聖徳太子の足跡だといわれた。人の足跡が有った。

 ○大木   琴平さん(山端にある)に大きな松ノ木が有った技が山端の自治会辺りまで伸びていたそうです.其の大木も山端の大火で焼けてしまった
※女乙山のむくの木(神功皇后が三韓征伐のおり垣生に立ち寄られたとき軍船を繋いだと言われています.)
※的場の二本松(浮島のお薬師さんの前辺りにあった)
※山の神の大松(今度の戦争の時きってしまった)

 ○お初穂  出来あきに神仏に米麦等をお供えすること。
オコゼ゛に噛まれたら なだの石を丁寧に被っくりかえすと早く治る。(垣生で言っているがこれはうそらしい)

 ○御利益のあるお宮、お寺 
※村松の(伊予三島)刺抜地蔵

※あわしまさん(市内光明寺)縁結び、婦人病

※泉大師(市内清水町)眼病 足の病

※延命寺(宇摩郡土居町)足の病 胡瓜封じをしてくれた。

※多賀神社(東予市)虫封じ めいちゅうの駆除に火を貰って来て田のあぜで火を振ってめいちゅうが発生しない様祈った。

※子安大師(小松町)子授け 安産

※妙見さん(大生院)目の病

※黒島神社(黒島)安産

 ○女の仕事  明治の末迄女に仕事らしいものが殆どなかった。百姓 網すき サラダ編み

 ○女の髪   髪が短くしたのは昭和十年頃から。その頃からパーマらしいものがやり出した。目本髪に結うとき、娘は島田 人妻は丸まげに結った、どちらも平素は引き締めで仕事をしていた。

 ○おだれ柱  農家などで軒を深くして作物等の取り入れ易いようにした。それをおだれといっていた。おだれを支える柱をおだれ柱といった。

 ○恐ろしい虫  ムカデ ハアリ クマバチ アシナガバチ 等

 ○女の下ばき  女の人が大正の中頃迄下ばきを身に付けていなかった.

 ○男の和服 子供の時着ていた筒袖がたもと袖に変わったのは十五歳位だった。

 ○男の癖にと言われたとき    ぐずぐず言ったとき 女のこと遊んでいたら.

 ○女の癖にと言われたとき 
木登り 自転車に乗る 人前でよく喋る 胸を張ってあるく 外がまであるく (昭和になるまでこんなに言っていた)

 ○男の子を育てるとき    
男の子に爪をつますな 親のでも女の足に障らすな魚の尻尾を食べさすな 男の子の枕元を通るな(等言って男の子を大事に育てた)

 ○お灸   銅山が見える所はお灸をすえないと体がなまけるといってよくすえた。お灸と共にスイダマも使った.

 ○贈り物の仕方  数の物は奇数にした(だが十三は嫌った)のしを付けるか のし紙で包んだ。
それらが無いときは南天の葉を添えた.貰ったときは必ずおとみをいれた.おとみにはマッチ 半紙 等を何にも無いときは松葉でも(おとみを入れないのは不幸の時)

 ○女の厄年 女は十九を厄年だといった。結婚も避けた人さえいた。

 ○男の厄年 男は二十五を厄年といったが女ほど気にしなかった.

 ○大池   垣生に池らしい池が無かった.西三木の前にただ一つ大池があった。(今はない)此の池にお祭りが近ずくと太鼓台の車を漬けていた。

おそうおばさん  
昭和の始め頃垣生小の用務員をしていた方 子供を大事にした。子供がいけないことをすると親の様に叱った。物を粗末にしているのを見つけると容赦しなかった.綺麗好きだった.(十年程も勤められた)

 ○大壁をつけた家   
大壁をつけた家は垣生には殆ど無かった.

 ○おやつ  子供のおやつに 芋 煎り豆 お餅 大根 自然に成った木の実 生の茄子(垣生の子供は茄子を其のまま果物を食べるように食べたので垣生の茄子くらいと他部落の人に冷やかされた.)大正頃のおやつに次の物があった. 飴玉 かつお 水飴 カリン糖 氷 カチ割り ラムネ 蜜柑シュ ニッキシュ 豆へと等があった.

 ○お社日さん 田の神様.小さなお社は方々に在ったのに今少なくなった.春のお社日に神様が野に出て作物を守り、秋のお社日に家に帰ってこられた収穫の感謝の意味のお祭をした。

 ○お稲荷さん 商売の神様、商売をしているうちは神棚を追って祭っているが垣生には屋外にお社は無い.川西 上部には何社かある.

     

 ○男だけの言葉  昔垣生の男がよく使った言葉、 ほてから 着物をきいてくる(着てくること) きりもの(着物のこと)なんたるこつ(なんたること) 等沢山あるが略す。