さの部              () () () () ()
○砂糖 砂糖きびは耕作していたが製糖はしていなかった.
サルマタ 今のパンツと少し違い前が重なる様になっ紐で結んでいた.大正になって次第に今のパンツに変わった。
○散髪 散髪は(男)殆ど各自家でした。
酒を湧す 少量の時はカンビンで、(昭和になって止んだ)
○三隣亡 
(さんりんぼう)
何か悪いことが起こる日といっていた。この日家を建てると倒れると一言い.また火がさどい日だから特に気を付けよとも言った。
三味所の仏飯 大正の始め頃関係者が順を決めてお供えした事があった.
○さす     重い荷を担ぐ棒のいっしゅムクの木等で造った.
○里芋 田芋ともいって垣生で沢山作って垣生の港から積み出した.尚神郷高津で耕作した里芋も垣生の港から中国路へ積み出した。
○サイラの卵 著さき垣生の海岸に海草等に産みつけられたサイラの卵が打ち上げられた。それを拾って帰って炊いておかず等にしたが戦後姿を消した。
サツマ芋 垣生山で多く栽培した.子供等は生でおやつとして食べたりし。大部分は蒸して主食替わりに食べた.そのほか色々に加工して子供のおやつにした.(かんころ 東山 カリント かんころの粉 かんころ団子 芋飴 )
○真田を編む(組むともいった) 女子供の今で言うアルバイトとしてよくやった。一反編むと四銭ぐらいお金になった。
さしこ 古い布を継いでさし漁師等の働き着として使った.
○財布 昔は端きれ等で造ったが若し買うときは春買えといった(春を張るに縁起担いだのか)
○雑誌の思い出 大人はあまり雑誌を読まなかった。子供が小遣等で買って読んだ。(少年倶楽部 少女倶楽部   少女の友 等があった。)
○作文集 大正時代に盛んに作文集が出された。
しの部(上へ)
自治組織 衛生会組織が始め造られ活動していた。戦いが激しく成り五人組・隣組等になり活動した。戦後自治会へと組織替えをして活動をする様に成った.衛生会の時は大掃除 井戸さらいなどもやった.
○信仰 垣生の昔の人は死後の世界を多く信じていた.地獄 極楽の話しを子供の時からよく聞かされた。霊のあることを信じている人が多かった.
習俗 トイシを大切にした.(農具がよく切れるよう手入に)ヘソの緒をとても大切にした。女がお嫁に行くときに持っていった。
死んだとき 知らして行くとき必ず二人で行った.役場 医者へも二人で行った。夜月夜であっても、チョウチンを持っていった.御通夜の晩は誰かが必ず起きていて、線香 蝋燭の火を絶やさない様にした。 刃物を死人の上に置いた (悪鹿よけに)死者を北枕に寝かした.神棚に白い紙を貼った.死者を猫が踏まない様に気を付けた。ゆかん 死者をタライに揚を入れて洗って上げた。湯は始め水を適当に入れ (タライに) それに湯を注いで適温にした.男女共頭の髪をきれいに剃り落とした.湯を湧す時釜の蓋をしないで湧した。
○仕事 農業 魚業のほか建築菜 商業 (いりこうり 塩売り 等)浜子 土方などがあった。
○集会所 公民館が無い時代 (部落の自治会館も無かった時代)
今の自治会館の役目をした.部落自治会館は始め青年団として建築し自治組織が確立して今の名になった.
○主食 白物 娘さんのこと (結婚の相手がまだ決まっていない娘さんを呼んだ)
○出産と家に居る動物 子供が産まれるのと同じに家で飼っている動物の子が産まれるのを嫌った.
自転車 大正の始めの人が乗り出した.自転車の普及の為お宮で競輪を度々した.今の競輪とはやりかたが違っつていた.自転車にフミキリ フイフル コースタン等があった.
湿地 湿地がかなりあった.今ラジオの放送塔の立っている辺りは特に深い湿地であった.
○四囲参り(御四国参り) 真言宗の者は青年時代一度は御四国参りをした.御参っに行くときおせんべつを近所や親類から貰った.御四国参りは全部徒歩で四十日余り掛かった.
○下肥     今の様に化学肥料が造られていないときは下肥を肥料として作物に施した.下肥を求めて随分遠方まで行った。銅山越えをして別子迄行ったという話も残っている.
○写真     垣生では明治の未頃映したという.写真は 惣開の真鍋写真館でよく映した。
○春画     昔御嫁に行くとき箪笥の中え入れてもって行かせたと言う話が残っている。ハコセコの中へ春画を入れていたと言う話もある.
神前結婚 氏神様(八幡様) では昭和二年始めて神前結婚を氏子がした.
除厄と神仏参り 氏神さま以外に伊勢の皇大神宮に御参りした.又阿波の薬王寺にも御参りした。
六灯を燃やした.(悪魔よけの為だと言って)死者に着物を着せるとき左前に着せた.着物は大勢で縫った.着物を縫うとき布を裁つのにハサミを使はず手で裂いた.また縫うのに糸のしりを括らないで縫った.枕びょうぶは逆さに立てた。死者に足袋を履かすとき左右逆さに履かした。家の門口にこもをたてた.入棺が済んだら茶がらを焚いて手をかさし死臭を消した.
○借金 御金を惜りて返す時金利の他にメザシ 串柿等を持って行って御礼した
○庄屋 垣生の庄屋は西三木の前辺りにあった。大きな池があって庄屋の池と呼んでいた。今その池が埋め立てられて無くなってしまった.
○常会   今の自治会の前身
○仕事始め しぞめとも言った。
○芝居の花  村に芝居が掛かったときひいきの役者に花を出した。又芝居の請けもとにも出したりした。
○修養会 昭和の始め若い者達で修養会をよくやった。感恩の歌や報恩の歌等声を揃えて歌ったりした。後で精神修養の話を聞いた。
○お社日さん  春と秋に土地の神を祭り、五殻の豊穣を祈った。垣生にも所々に小さなほこらを造りおまつりしていた。
春と秋に土地の神を祭り、五殻の豊穣を祈った。垣生にも所々に小さなほこらを造りおまつりしていた。
○写真を写す時のタブー 三人で写すな。真ん中の人が早く死ぬP 又魂が抜かれる。
○仕事の量 一日の一人前の仕事の量 ムシロは一枚 フゴは一荷 縄は三百ひろ 草履は十五足 俵は一俵分 等
出征兵士の見送り 日清 日露戦争の時はあまりしなかった.大東亜戦争では派手な見送をした。敗戦まじかは軍の秘密だといって私服で出征したりした.(こっそりと)
○シャツの手首のとめかたの移り変わり
始め紐で括ったりした。それがボタン止めになり、ホックになった。
○字を大事に 習字の稽古で使った紙は便所等に持っていってはいけないとしつけられた。
○シンシ張り  着物等洗濯して糊づけ等するときシンシ張りをした.細い竹で布をピンと伸ばして
消防団 始め消防組と呼んでいた.ポンプは腕用ポンプで大正の始め性能がうんとよくなった.ガソリンポンプが使われ出したのは昭和になってから今の自動車ポンプは戦後世の中が落ち着いてから。
四大節 新年(年の始め)紀元節(国の肇め)天長節(天皇誕生日)明治節(明治天皇の誕生日)小学校では式をした。ご真影(天皇 皇后の写真のこと)の前で君が代(国歌)を歌い 教育に関する勅語(教育勅語ともいった)を校長が奉読(読むこと)し.式のいわれを校長が話をし来賓(村長他)の祝辞ががあって式の歌を歌って式を終えた。
下ばき(パンツのこと) 女の子が下ばきをはきかけたのは昭和になってから
巡査さんの呼び方 じゅんだはん ちゅうざいはん おまわりさん だんなはん(等と呼んだ)
神官さんの呼び方 おたゆうさん おかんぬしさん等と呼んだ
除草機 田の草を取るのは、始め全部手で取っていた。田植を正条植えに植える様に成って除草に道具を使用する様になった。始めハツタンズリが作られ、大正になって田ごろが発明され(子供等は田押す機械とも呼んだりした.)除草機が段々改良されたが戦後除草剤が普及するにつれて段段姿を消してしまった.
新田ということ 垣生に新田として開発され其の名残の地名がいくつかある。それを上げると 二開 三開 浦新開 中村新開 孫兵エ新田 真新開 外新開 未改開 前新開 惣左エ門開 勘左衛門開 五反新開 等です。しゃぇん(菜園)家のすぐ近くにある野菜畑を言った。
神仏混在 垣生には女乙神社等がある.
職人気質の人 垣生には何人かいた.(名前を上げてくれたが漢字が分からないから仮名で)しげまつさん(桶を造る人)まさ大工 つる大工 こう大工等
すの部(上へ)
水道 垣生のうち山端の水があまりよくなく困っていた。(山端は昔どうも海であったらしい.) でお茶の水等に苦労していた.戦後簡易水道が政府の補助で垣生にも引かれた。前浜に井戸を掘り水源地とし其の水を一旦中東の山に上げそこから配水した.(昭和二十六年の夏から配水した)
雀脅し かかし ガス鉄砲 鳴るこ 白い木綿糸を何本も張る 網を張る 光るテープを張る等 
すくもの利用 からいもの貯蔵 やきぬかにして掘こたつにいれる 田畑に入れて肥料にする。
すげかさ 今の帽子の様に被り日除にした。
すりこ 幼児(乳飲み子)の母乳の代用として飲ませた.一般に白米を洗って乾燥しそれを煎って石臼で粉にし砂糖等混ぜて飲ませた.
煤竹 昔の家など窯やが別に無いので家の中が窯の煙で煤けていた.屋根の葺き替えの時煤竹が取れた。(お茶の道具等にした。)
相撲 子供の相撲 平素は海岸の砂の上でよくとった。男の子の遊びには相撲が多かった.垣生では金比羅さん(山端)女乙さん(本郷)お観音さん(町)の縁日に相撲をとった.其のとき子供も相撲をとった。時には女の子もとったりした.小学校では昭和六年以後四五年よくとった.
せの部(上へ)
選挙 明治二十三年第一回の国会(有権者がごく少なかった。)選挙の時有権者が羽織袴の正装に威儀を正して選挙した。今で言う所得税みたいなものを納税していない者が選挙権が無いときがあった。又土地を所有していない者も選挙権が無かったことがあった。山端の人が火葬場を連名で持って早く選挙権を得たと古老が言っていた。
青年団 昔小学校を卒業すると若連中の名で青年団に入った。青年団の活動の主なものは 春 道直し(道普請といっていた)夏 般若入れ(夏の健康を祈って) 秋 太鼓台運営 冬 夜警(拍子木を叩いて火の用心を振れて回った.)大正から昭和になった頃青年団という名に成った。酒屋の岡さんが団旗を寄贈してくれ活動が一層活発に成った。娘さんの集まりに処女会があったが戦争が激しく成る頃女子青年団と名を変え銃後を守る一員として活動した。
赤飯を炊いた日 誕生日 御祭り 家を建てるとき(石の積き)等 結婚(ひやぬくめとして)
家族が食事する時今の様に食卓で一緒にせず各自箱膳を持って其の前に座ってした.箱膳には普通の膳と高膳とがあった。高膳は一家の主人が使った.箱膳は垣生では大正の末頃より段々飯台になり今の様になった
戦争中言っていたこと.また戦後に言っていたこと
四国には金比羅さんがあるから敵の飛行機が四国山脈は超せん。日本が負けると、男はきんたまを抜かれ女は陰毛を剃られてしまう。アメリカ兵が日本を占領すると女は一人残らず犯される。成田さんのお札を持っていると敵の弾に当たらぬ。国旗に寄せ書きしたものを持っていると、弾が当たらない。電波を発してそれが敵機に当たり跳ね返ってくるそれを狙って弾を撃つと確実に当たる.日本刀等隠していると、アメリカ兵がそれを見つける電気の機機を持っきて達どころに見つけ処罰される.
歳暮のあれこれ  お歳暮をいつも行っている銭揚、理髪店、美容院等に持っていった.お宮 お寺に氏子 檀家 門徒から何か持っていった。御返しとしてお宮から富松 お寺から著をくれたことがある。それを配って来る人は戸口で大声で「00御礼申そう」と言って配った.(これらは昭和になって止んだ)
青年の悪戯 昔軽い悪戯を青年がよくやった。庭のザボン カキ ナシ 等を取ったり、火の用心に回りながら軒の下の吊し柿を頂戴したりもした。
セメント 九十年位前に垣生で使った人がいる。セメントは九十年前は樽に入れられて売られていた。二十五貫樽と五十貫樽とがあった。セメントには小野田セメント 浅野セメント等があった。垣生では家の土台等につかった。塩田のタイツボに使った人もいたそうです。セメント樽は重く運搬に苦労した.(二十五貫樽で百キログラム近くあった.)
精米楕麦 これには大変苦労した。臼に米麦を入れ人が足でついた。動力を使って精米精麦をしたのは昭和になってから。
先輩よりきいた話で今に為になったこと(青年の集まりなどで聞いた話)
食事の時ビシヤピシヤ音を立てるな。食事直後横になると牛に成るぞ。物を大切にせよ.草木 動物にも仏性があるぞ。御飯をこぽして踏み付けると目が潰れるるぞ。御飯は正座して食べよ.御飯を食べるとき茶碗の中を見ながら食べよ。失業している後輩に「仕事は無いと言うことは無い小山の赤土を担って道を直して見よ。必ず仕事が見付かる 等
善根宿 垣生にもあった。善根の為四国遍路の宿をして上げた。
石炭ガラ 石炭を燃料として使ったかす.戦前は沢山出来て捨て場に困った。
正装 男子の儀式の正装 五っ紋の着物と羽織 仙台平の袴
女子の正装 着物五っ紋江戸つま(下着には白を着た) 結局今とそう変わっていない.
石鹸

垣生では大正の始め頃から使われた.始めは浮石鹸もあった。固くて沈む石鹸は高価だった.石鹸にはミツワ石鹸 花王石鹸等があった。戦争中は石鹸が極度に不自由であった.戦後沢津の弓山で洗濯石鹸を暫く造っていた.三十年頃より石鹸が豊富に出回った。

石盤 明治から大正にかけて小学校では石盤を用いて今のノートの様に使って勉強した.石盤も始めは天然の石(ネンバンガン)であったが重いので後に馬糞紙で造ったのを使っていた.
石炭のこと 石炭を始めゴヘダと呼んでいた.(エネルギー価の少ないもの)エネルギー価の高いものを三池と呼んでいた.ゴヘタを塩田の塩炊きに使用したのは大正の末近くになってから。
青年が集まった所 部落に青年団(今の自治会館のこと)が無いとき青年が集まって話合をしたり情報を交換したりしたのは サンバツ屋 うどん屋 駄菓子屋 などであった。また娘さんの居る家(夜になると青年が遊びにいかんかと数人が固まって娘さんの居るうちへ行って、四方山話をして帰った。冬は炬燵に入ったり、百人一首を取ったりした事もある。)
銭湯 垣生には早くから銭湯が数軒あった.銭湯にいくには始め小さな桶に入浴用具を入れて持っていった。石鹸の無かった時代はヌカを布で造った小さな袋に入れたのを持っていった。桶が金だらいになった
洗潅物の干し方 男物と女物は別に干した。女の下者は陽の当たる所に干すなといわれていた.女の下着は夜屋内に干せと言われたこともあった・
その部(上へ)
相続のこと 確かな決まりがなかった。
そつぶ 奉公に行って、給金の他に盆暮れに奉公先から衣類等をくれた。それをそつぶといった。
雑煮 正月に御餅を炊いてよく食べた。十三食べた十五食べた等と言って言たものだ。雑煮のかやくに豆腐大根水菜等をいれた。
壮年団 戦前から戦中にかけて団として大いに活躍した.
草紙 戦前習字の稽古に半紙を何枚か綴って草紙を造りそれで習字の稽古をした.習字の事を書き方といっていた.
掃除の仕方 電器掃除機が昭和四十年過ぎに各家庭で使われ出した.それ以前はハタキとホウキでバタバタと音を立ててやったものです.
僧侶の呼び方 ごじゆつさん ぽんさん ぽ−ず いんげんさん いんじゅさん等と呼んだものです.
葬れん道の橋 町部落から町自治会館に行く道を葬れん道と呼んでいた・町部落の外れの溝(昔上荷の船が行き来していたそうです・弁財天の塩田が廃止されて溝が狭く成った).その溝に太鼓台の車の古くなって使用しなくなった物で橋を架けていたことがあったそうです.
草履を長持さす 草履は各自家で造ったので遠足等の時は長持させるため草履を造るとき布やシュロを編み込んだ.
葬式に道で出会ったとき 親や先輩から立ち止まって頭を下げて見送れと教えられた。