たの部 () () () () ()
○大力の人.  庄屋の丈肋さん(二人前の仕事をした)  八幡丸の人(おにだけさんと言われていたとか。)けんじろうさんのおとうさん いさはん (町の人) 四斗樽(空といっぱい油をいれたのを)を両手にさげて 空を 当てさせる遊びが出来た。くんだおっさん 谷五郎さん等。女にも大力の人がいた.(きみちゃんと言う方が紡績に行っていて男の人に悪戯されそうになってその男を溝に投げ込んだという。)

頼母子請  昔かなりやった.頼母子講には次の様なものがあった。切り講 もり講 投げ込み講 船講 蒲団講 車講  自転車講 お伊勢講 お大師講 お観音講 お座講 阿弥陀講 等。昭和三十五年頃止んだ.講については「この部」にも載せています.」
○足袋のこはぜ 明治の中頃より使った. 其れまでは紐で結んでいた.
○台風  垣生を襲った台風で被害が特に酷かったのは明治二十六年九月三日(旧暦)の夜からの台風で新田の土手が決壊し、 稲刈りは田船で潮のひいた間にしたとか。

○旅に出ていくとき くまおじを避けた.また血の濃い人が一度に東西に分かれて旅出る様な事は避けた.

○大八車 明治の終り頃より使われた.だが値が高く使用した後直に綺麗にした。当時32円だった。(大八車を買うために車講をしたことは既に書いた。)
七夕 七夕は旧暦の七月六日の晩に師って御祭りをした.お供えとして 茄子 キュリ スイカ フロ カボチャ 等と共に裁縫道具も供えて上達を祈った.御団子をも供えた。七夕飾りの短冊の字をハスの葉に溜った露をスズリにとりそれで墨をすって書いた事が多かった.

○俵 昔は米麦を貯蔵するのに今の袋(紙)でなく俵に入れた.俵は空のとき一貫匁と決めていた。俵のふは七十一だった。
田植えの時気をつけろと言われた事。
苗を抜いた藁の輪の中え苗を植えてはいけない。苗を括った藁は必ず伸ばしておけ・もし輪の中え苗を植えると中風に成ると言った。

○田芋の貯蔵 砂地かよく乾燥する畑のまくらに掘って埋め上から土をかけて貯蔵した。うんと冷やすと芋が腐る。

○脱穀 昔は万力で脱穀した.足踏みの脱穀機が昭和になって 多く使われた。戦後暫くして動力脱穀になった。

○樽入れ 他村へ嫁入りしたときお祭などに嫁入り先の婿からお酒等を青年にふるまった。後にお金になり、何時のまにやら止んだ。
○太鼓台の飾り 昔は質素な物だった.垣生の人が縫いをした事もあった。
○狸の嫁入り 長道(又野から楠崎に行く道)でよくみかけたという。明かりが連なって見える事があった。昔長道には家が一軒も無かった。
男の子女の子をどんなに呼んだか
男子を 兵隊 大砲 のぼり 跡取り お位 牌持ち お仏飯持ち
女子を メンタ・バリ 船 軍艦 お雛さん 等と。


○田植え 苗が大きくなり田が出来上がると田植えをした。田植えには先ず苗取りをした。昔は苗取りに腰掛を使っていると笑われた、中腰で苗をとった。田植の時世間話が盛んに話され情報 の交換に役立った。田植の方法には垣生では定規を当てて植える。他の土地では縄を引っ張って、転がして植えた。然も 一茎一茎手で植えた。
たきぎ 燃料の所に載せています。
昔は畳が貴重品であった。平素畳を敷いている家が少なかった。
○竹馬 (大正の始め頃)は昔の子供が(主に男の子)自分で造ってよく乗って遊んだ。その時竹の長さを乗って頭より長くせよと やかましく教えられた。(顎を突いたら大怪我をするからと)上手な者は屋根に腰掛て乗る高さに乗って得意になっていた事もある。


○駄菓子 昔駄菓子屋が多かった。子供が一銭二銭のお小遣いを貰って駄菓子屋に走って買ったものだ。アメ玉 豆ヘト ハケビ 筆菓子 コンペイトウ等であった。
○体操の服装 男子は今と大差が無い。女子は明治時代に前掛をしてやったことがあるそうです。女子は跳躍等しなかった。(パンツ等履いていなかった.)大正の終頃から今に似た体操の服装に成った。

○煙草入れ 刻み煙草をのんでいる者が多かった。キセルを入れる筒はコヨリで編んだ上に漆で加工した物が多かった。

タオル タオルを使いかけたのは大正の中頃から.始め西洋手拭と言って大事に使った.

○食べ物の行商 昔 カマボコ 蜜柑 トコロテン 飴(今の廃品回収の様にボロ買いが釆てボロと引き換えに飴を貰ったことがあった)飴湯 甘酒 氷売り(掻き氷)柿などをよく売りに来た.それらは大概天秤棒で担いで売り声を高らかに出して売りにきた。

竹の下駄 大正から昭和に移る頃造って履いた人がいた。
○たこ 冬子供達がたこを造って揚げて遊んだ。たこには障子たこ 相撲取りたこ 飛行機たこ   福すけたこ ごんぼたこ  等が有った。
○田の草取り 百姓の仕事で辛かったのの一つに田の草取があった。 田の草取は夏の炎天下一抹一株丁寧に取った。(一反の田に稲が約一万五千株植わっていた)田の草は普通一番草 二番草 三番草 取り上げ草と四回取った
○竹の入手 子供が竹のおもちゃを造るのにどんなにして竹を手に入れたか、建築現場で切れはしを貰ったり。桶屋で切れはしを貰ってそれで造った。
○田の旧畝と新畝 田の旧畝は六尺五寸角を一坪とし新畝は六尺角を一坪にした。従って新畝は大分狭い.(貞享年間に決めた 貞享年間とは一六八〇年頃)
○団子を造る日 団子は昔は七夕 田のもついたち 月見等に造った。おやつの少なかった時代子供達はその日を楽しみに待った。
大黒柱 昔の家には大黒柱が必す有った。家の全ての重量がその柱に掛かった。此の頃の新築の家には大黒柱を略したのが多い。大黒柱の向かいにある柱を向かい大黒柱と言った。大工がこの二本の柱に念を入れて設計・施行した。
ちの部(上へ)
力の強い人 たの部に載せてあります。
忠魂碑 垣生の年中行事のなかに載せています。
○地主 垣生には大地主は少なかった。
○縮みの布 垣生には明治の中頃入って来た
垣生で商売で茶を耕作したことが無かった。
○茶と縁起 茶柱が立つと繰起が良いぞと言った(茶柱が立つ茶は極上等の茶ではない.)桜茶めでたいときに出した。
あまり上等でない茶を木綿の茶袋に入れてそれをカンスの中に入れ何時も湧していた.(渋い茶を飲んだもの)

○茶瓶 始め土瓶が多く使われた。(割れ易いので困った)、そこで割れないカンスが多く使われた.次にホウロウの茶瓶になり、次にアルミニュムの軽い物に変りアルマイトの茶瓶になり今の様になった。

○地獄極楽の話 年寄り等から悪い事をしたり生き物をいじめると死んだら地獄に行き、良い事をしたり生き物をあわれんだ者は極楽へ行くとの話をしてくれた。お盆や仏日等にも。
(法泉寺 三味所 に軸が有って仏日に掛けて見せてくれた。)
○徴兵の事 徴兵とは昔男子が二十才に成ると徴兵検査を受け合格すると兵隊に成ること。(例外として明治の中頃まで 家の後継ぎ一家の働きの中心の人が行かなくても良かったことがある 。一年帰休といって二年兵隊に行くのに一年で帰ったこともあった又二百二十七円納めると兵隊に行かなくても良い制度 の時もあったとか。)戦後これらは全部止んだ。

○チラシ 今のポスターのこと (大正の中頃まで大売出しの景品としてくれた壁等に貼ったものです。

○チュインガム 昭和十年頃垣生に入った。(だが極限られた人しか口にしなかった。)戦後誰でも口にするようになった。
○力自慢 たの部の大力の所に載せてあります
つの部(上へ)
小学校で勉強していた子供は宿題など殆ど無く家に帰っても勉強はしなかった。(勉強より家の手伝いの方が大事だった)従って家に机のある子供が少なかった。学校で勉強する机は木製で二人で一つの机を使用した。腰掛も二人で一つの腰掛をつかった。)昭和五年から腰掛が一人用に段々と変わった

○つぼや 家庭で使った洗い水等溜めて肥料にするために掘った溜め壷をつぼやと言った。今すっかりなくなった。

○通学姿 教科書や学用品をカバンがまだ無い時代(大正の終頃からカバンが用いられた.)は専ら風呂敷を使っていた.男の子は風呂敷を腰で結び、女の子は斜めに肩から脇の下で結んで通学した。

○月見 貧しい家が多かったのであまり派手にはしなかった.悪米を粉にして団子にしてお月見した事が記憶に残っている。

○坪刈り 稲の出来案配を調べるのに坪刈りをしたことがある。

○付け下げ 女の着物の一種 振り袖の袖の短いもの。

漬物 大根 かぶ にんじん 茄子 きゅり 等を漬物として食べた。珍しい物として柿の味噌漬 玉葱の味噌漬け等もあった
○つむを投げる 田のあぜを真直に塗るのをつむを投げた様に塗れた等と言った。つむとは糸を紡ぐ時に使った道具

椿さん 垣生の人は戦後多くお参りに行くようになった.
釣台 婚礼の時等御祝の品を載せて担いで行った物
○爪に関係のある言い伝え 爪は夜つむな(きること)夜つんだら親の死に目にあえんぞと言った.又つんだ爪を火にくべてはいけない.とも言った

ての部  (上へ)
○電灯 垣生に電灯がともりランプから開放されたのは大正五六年頃であった。始めは大概の家は一灯しかつけていなかった。(コードを長いのにしてもらってあっちこっちに電灯を移動 していた.)お客等あると臨時灯を頼んでつけてもらった。

○出稼ぎ 垣生が土地も狭く仕事が少ししか無かったので昭和十年頃迄出稼ぎにいく者がかなりいた。男子は因島 呉 九州 大阪方面等に行った。(特に呉が多く宮原通三丁目に垣生の人が固まって居たので垣生町ともいっていたことがある。)女子は岡山 大阪 岸和田方面に嫁入り迄行くことがかなりあった.(女子は子守 サラダ編み 紡績等の仕事をした)

○弟子入り 男子は大工 左官 等の職人に成るため親方の内に住み込んで弟子に成った。弟子は無給で親方の家で普通五年働いて技術を身に付け弟子抜けをし一人前の職人に成った。弟子抜けの時親方から道具一式をもらった(弟子の間はほんの少しの小遣いを貰って辛抱した)

○天候と諺 垣垣生には天候に関係のある諺に次ぎのようなのがあった。
虹が完全なのは雨 少し欠げていると風 お月様の笠の中にお星が見えると雨が降らない ながせの時化に会って死にたい トンビの高舞風が吹く 夜北は城下迄だ 夏の夕焼川越しいくな  烏が鳴くと人が死ぬ 三日月が舟に成ると雨  帆に成ると天気

○でこ回し お正月等でこを(でことは人形の事)回し(人形を色々に動作せること)に来る人がいた。その人たちが多く次の歌を歌ってでこを回した。「やれやれ奥さん ごじやめんな 福はとうにお礼に こうと思ったが あちやこちや こといそがしゅうて 隣の八兵エさんところで とおしみのおしたしと 軽石のにぎりまま(ままとはご飯のこと) たんと支度してまいりました 
福はこけても 鼻うたん ホ ホ ホ ホ

天災 垣生で大きな天災の話しとして残っているのは。地震で金比羅さんの松が犬が尻尾を振る様に動いていた地震があった。(安政の大地震らしい)津波は垣生には無かったらしい。洪水を知っている人はいない。台風の被害は毎年あった。

○手づくりの食品 大正の終り頃豆本が子供たちによく読まれた。垣生の人が自分の家で造った食品には次の物があった。味噌 醤油ヒシオ キンダンジ 味噌漬 白味噌等
○電話 三木が垣生で一番始め電話を引いた。八番だった。西三木は二五番だった。警察(駐在所 )役場等は大正の始めに引いたらしい・電話が今の様に普及したのは昭和四十年の中頃過ぎからであった・

○テニスの思い出 大正の中頃より学校で先生などがテニスをしているのを見て子供が板切れでラケットの小さいのを造りオンジャク(蝋石の事)でラインを引いてネットの替りに板を立てて真似事をした

○伝統産業 塩 製綿 イチピ 養蚕 等他目ぼしいものが無かった。
○出作り 垣生は耕地が少なかったのに出作りは殆ど無かった。垣生は耕地が少なかったのに出作りは殆ど無かった。

○手伝い 昔は何かあると近所でよく手伝いやいこをした。田植 麦こなし 建てまい 屋根葺 石のくち 等 昔は何かあると近所でよく手伝いやいこをした。田植  麦こなし 建てまい 屋根葺 石のくち 等

○電灯のこと 電灯が切れたら散宿所に持っていって替えて貰った。散宿所は垣生にもあった.

との部(上へ)
賭博     垣余りよいことではないがお正月等に小さな賭博をよくやったそうです。賭博には ほほびき まめびき ろくど はなふだ トランプ等がやられた。
トマト 垣生に昭和三年頃入ってきた.始め何だか臭くて弱った.(西洋茄子だ)と言っていた.栽培に工夫をし昭和五六年頃には新居浜へ売りにいくようになった.

○トイ 今家にトイの掛けていない家がないが昔はトイを家の入り口だけに竹を二つに割って節を除けてトイにした家がかなりあった。

○戸袋 戸袋は大工の腕の見せどとろだと言っていた。戸袋には大工は特に気を使っていた.(昔大工が家を建てるとき腕の見せどころを必ず一か所つくった.それに戸袋を決め腕によりを掛けて造った.)

○トコロテン 戦前北沖や東沖の海岸でオゴが沢山取れた.それを取ってきて灰にまぶしねかしておいて夏になると水にもどしトコロテンにしてたべた

○土橋 葬れん道に架かっていた橋(念仏橋ともいっていた)粗末な橋で丸太を並べ其の上に土を盛っていたことがあった。

隣組 戦争中組織が出来た。五丁組 五長組と呼んだ組織があった。また衛生組合と言ったこともあった.後自治会に発展した

○トリ貝 垣生の海岸で明治四十年頃から取れ出した。昭和十年頃から昭和三十年頃まで多量取れた。が段々取れなくなって昭和四十五年頃からぜんぜん取れなくなった。(カシパンが異常繁殖したのが原因だという.)

冬至に食べた食べ物 夏取れたカボチャを蓄えて置いて冬至に炊いて食べた。
○豆腐 垣生に豆腐を製造している家が昭和の始め頃数軒あった値段は明治の終り頃一銭五厘昭和の始め五銭昭和二十五年頃十二円だった.豆腐は大豆二升で十二丁出来た.(昔豆腐屋に昼頃やってきて豆腐一丁を買い醤油を貰って食べ昼弁当の替 りにした人が居た事があった。)

○とうどう 垣生でも大正の始め頃やっていたことを覚えている人がいた

○唐箕 穀物の選別には農夫は大変苦労した。始めは箕で一々さぴていた何分手作業だので能率も上がらず其のうえ腰が疲れて困った。唐箕が発明されて穀物の選別が楽になり能率も上がった。けれどかなり高価で現金収入の少ない農家は買いたいのはやまやまだが御金がない、そこで何軒かで組を造りお金を出し合って購入し順を決めて使用した。 (唐箕等の古くなったのを燃やしてはいけないと年寄りが言っていた。唐箕を燃やすとものの言えない子供がうまれるぞと)唐箕は始め大型だったが改良に改良をかさね、部分的に金属を使ってかなり小型になったが今滅多に見ることが出来なくなった。

○友引 麿にのっている六輝の一つ相引で勝負の無いという日 朝晩は何事もよく昼は凶だといわれている。友引の日に葬式をしてはいけないと言う俗信があって葬式をしない日としている。(垣生の浄土真宗の門徒の人は明治の末頃迄葬式をするのに友引きを気にせずやったそうです.それが何時からか友引きの日に葬式をしなくなった。)

○トンボ釣り 夏になると子供たちはトンボ約りに夢中に成ったものだ。トンボが沢山飛んでいた。子供たちが竹ほうきや笹等でまずオーツを捕まえメンを糸で結んで飛ばしオンを誘って捕まえた。(メンをノ一ロノーロと回しながら飛ばしてオンを捕まえ指の間に羽根を畳んで何匹も捕まえて得意になったものであった)

トリモチ 夏は子供にとっては何もかも開放された嬉しい季節だった・今のように宿題は無し家の手伝いを手早く済ませてトンボやセミを取って遊んだ。セミ等を採るのにトリモチを使った事があった。トリモチは小麦で工夫して自分で造った。
○読書 昔の子供も読書欲が今の子供に負けないほどだった。けれど本が少なく図書館も無かったので、たまたま本を買ってもらうと大事に読み友達に貸して上げたり、又借りたりした。回し読みと言うことも盛んにやった。立川文庫や少年倶楽部等がよく読まれた。戦前は今の様に子供の読む漫画が少なかった。親類の人のお土産に本を貰ったりすると、友達と一緒に時の立つのも忘れて読んだ。
○とんきり節 昔雨の日 寒い日等外で遊べない時に女の子が何人か集まってお手玉遊びをよくやった.其のとき とんきり節を歌いながらやった。歌の文句は遊び歌の所に載せてあります.
○取りついたと言うこと 昔 狐が取り付いた 蛇が取り付いたなど言っておがんで取り付いたのを除けて貰った話が幾つか残っている.

○飛やい遊び 昔垣生山は子供たちの格好の遊び場であった。放課後子供たちは垣生山に登って思う存分駆けずり回った。其のなかに飛びやいがあった。高い所から飛んで其の高さを又回数を競い合った。

○鳥の巣取り 垣生山で遊んだ子供は鳥の巣を見つけると其の巣から卵を取った。特に子供がよく取った島の巣にバンドリの巣があった。バンドリの卵は鶏のうぶ卵位の大きさだった.卵を取って焼いて食べた。カワセミ ヒバリ スズメ 等の巣もよく取った。

○唐きび人形 唐きびの薄皮で日本髪の形を造って胴も造って美麗な人形に仕上げて人形遊びをよくやった。

○闘鶏 垣生では昔からやっていた。

道路工事費 大正の終り頃 垣生より江の口迄の道路工事費は一万六千円だった。
○特別な日の食べ物 冬至 カボチャ  半夏 団子  
節分 鰯コンニャク  土用 ウナギ 等