なの部      () () () () ()


 無くなったもの

   垣生で昔ばなしにあって今無いもの
   狸に化かされること. 狐に化かされる.

 無くなった道具

   弁当ふご ふご むしろ わらじ等

 長岩橋

   昭和9年に架かった.垣生の唯一の橋 長岩橋が架かる迄
   渡しがあった.後橋の所に樋門が造られ今の様に成った。
   橋が出来るまで潮が引いていると飛び石を渡り、潮が満つ
   と渡し船で渡った.船は竿で操った.(距離が短かかった
   から.)

 仲人

   昔は村内で結婚が多かった.青年が娘さんの家に夜遊びに
   行く習慣があった.男女が仲良くなり結婚したくなると仲
   人を立てて結婚をまとめてもらった。仲人に頼まれ仲人も
   かなりあった.

 南天と縁起

   朝南天を見るとその日は縁起がよいといった(便所の側に
   南天を植えたのは人間は大概朝便所にいくので南天が目に
   はいる、それで縁起がよくなると言う事らしい,)

 中津の道     

   昔は道が曲がっていた昭和の始め頃今の様に真直にした。

 流せ

   明治の終わり頃から垣生でやっていた。はじめ人の力でろ
   を漕いでいた。

 夏越祭

   昔は夜中迄お参りに来るものがいた。(六月十五日ごろ)屋台
   も多く出ていた.電気が今のように自由に使えないときロ
   ウソク等のあかりで商売していた。

 無くなった税金

   醤油税(明治の末年五十銭)自転車税 車(大八車)税  扇風機税 等


 夏の肌着     

   チジミ アサ 等今とたいして変わっていない。

 なんでも屋

   今のスーパーの様なもの(垣生にはなかった)

 中宿       

   遠方からお嫁に来たときお嫁さんが休想し着替え等したと
   ころ(嫁入り先の近所に頼んだ.)

 にの部(上へ)

 妊婦のしてはいけないといわれたこと.

   火事を見るな 砥石を股ぐな 砥石の研ぎしるも股ぐな 
   柿を食べるな(柿の木の下にも行くな)フンドシを洗うと
   お産が重い ホオキを股ぐな.等

 妊婦のいる家人が気を付けよといったこと.

   喪家に手伝いに行っても墓穴掘をすな。
   妊婦のいる家に正月草々女が行くな.

 庭木を植える時気を付よと言われていたこと.   .

   旭橙 桑は北 (橙は東に植え 桑の木は北に植えよと言
   うこと)椿の木が家より高くなるとお化けが出る.
   四辻に椿を植えると其の椿に魔物が住む 
    民家にイチョウを植えない ザクロは庭に植えない  
    下がるものは庭に植えない方がよい 
    ビワ柿は植えない方がよい  
    シユロの葉ずれの音が武具の音に似ているので
    家の近くに植えない.

 入浴

   垣生の衛生の所に載せてあります.

 入籍

   男女が結婚しても直ぐ入籍する人が少なく子供が生れて入
   籍した人が昔は多かった.又子供が生れても直ぐに入籍せ
   ずかなり日を経て入籍した人もあった。(明治時代の終わり
   まで)

 鶏の放ち飼い

   ずっと昔鳥端で蜜柑畑(五反位)のぐるりを囲って鶏を飼
   っていたことがある.それ以外は無かった.

 ニッキシユ

   夏の子供の飲み物として好評であった.ガラスの瓶に入っ
   ていた。ガラスで口を切らない様に大人が注意していた.
   (ニッキを砂糖水で溶いたようなもの)

 荷を担ぐ

   車の無かった時代荷物は専ら背負うか担うかして運んだ。
   担うのにサス オオクを用いた。(昔の人は肩に荷物を担
   ぐのを余り苦にしなかった.)

 入学式

   大正時代まで小学校の入学式に付添の大人が居なくて一人
   で入学式に行く子供もかなりいた。学校で簡単な式をして
   校長や受持ちの先生に引率されて八幡さまにお参りしてお
   祝にお万十をもらった事もあった。

 入棺

   人が亡くなると葬式をし土葬(真言宗その他)火葬(浄土
   真宗その他)をしたが.昭和になるまで入棺が今より丁寧
   であった。まず、タライに湯を(湯を入れるとき水を少し
   入れ後からお湯を入れて湯加減をみた.)入れ亡くなった
   人をタライに入れ洗って男も女も頭の髪を綺麗に剃って白
   い衣を着せて入棺した。白衣を繕う時布はハサミを使わず
   手で裂き糸尻を括らずに縫いあげた。(なにもかも平常し
   ない事をした)

 二宮尊徳の銅像

   小学杖で二宮尊徳を全ての行ないの手本だと指導し校庭に
   銅像を建てて徳育の手本にした。垣生小学校にも昭和八年
   日野敬助氏が寄贈して職員室の前に建てて子供の教育の一
   助にしていた。戦争が激しく成り金属の供出がなされた時
   真っ先に供出した。戦後昭和三十七年香川夏平氏が寄贈し
   た。校舎の新築によって現在の所に移転した。

 日光写真   

   大正の終り頃盛んにやった。日光で物の姿形が現われるの
   で子供にとって不思議であり又喜びであった。
      

 にっペ

   子供が何か勝負事をして勝ち負けが決まると勝ったものが
   負けたものににっぺをいれた。にっぺはかなり痛かった。
   尚痛い様にとホケをして痛そうにして相手に痛さがます様
   に仕手やったものだった。

 日食の時    

   お日さまのご病気だよと親に言われた。中にはお薬を煎じ
   て器に入れてお供えた人もいた。

    

ぬねの部(上へ)


 縫い上げ

   子供が和服を着るとき和服を大きめに縫って体に合うよう
   に上げをした。それを縫い上げといっていた。今の子供が
   殆ど洋服を着ているが時に縫い上げをしたのをきている子
   供がいる。

 ぬか袋

   石鹸の無い時代ぬかを袋に入れて今石鹸を使う様に体を洗
   った。ぬか袋にぬかだけでなく、黒砂糖を入れたりした事
   があった。黒砂糖をぬかと一緒に入れると肌のきめがよく
   なるといった。洗い粉を入れる人もいた.

 年貢

   小作が秋お米を収穫したら地主の所え今で言うと土地を借
   りてお米を作った借り料みたいなものを持っていったそれ
   を年貢と言った。年頁は上田は一反一石二斗、下田は五斗
   五升であった。屋敷年貢は石五斗が多かった.山地年貢は
   三斗からよい畑は八斗だった。山地の年貢も米で納めた.

 念仏橋

    町から墓場に通ずる道に架かっていた小さな橋。

 年賀状

   戦前はあまり出さなかった。
   最近になって急に多くだすようになった。

 願い事をどんなにしてしたか。

   神様に何かお願するときに水ごうりをしたこともある。又
   お百度を踏んだ。又裸足参りをした事もあった。病気なん
   かで危篤になったとき近所の人が近所を回っておさいせん
   を集めお宮に駆けつけつなぎのご祈祷をして貰ったことが
   あった。

 年賀

   男女共六十一に成ると還暦の祝いをした。それから後七十(
   古希の祝)七十七(喜の祝い)八十(傘寿の祝い)八十八(
   米寿の祝い)九十(卒寿の祝い)九十九(白寿の祝い)百
   才以後は毎年お祝いしたものだ。年賀は年の祝いで除厄(
   男四十二才 女三十三才)とは全然意味が違うことを混同
   しない様にしなければならないと教えられた。

 念仏講

   自治会の小さな様な組繊 不幸な事が起こったとき 
    おもに人が亡くなった時 葬式がとどこうりなく済ませる
   よう世話をする組織

燃料      垣生の昔の家庭の燃料はコキバがおもであった・燃料には苦労した。

のの部(上へ)


 農家の仕事

   戦前の農家の仕事はかなりきつかった。米 麦などは農家
   は各自の家で人の力でついて煮炊きできるようにした。(
   米は唐臼で大体千回つくと白米になった)農家に農夫として
   住み込んで働く人は朝飯前に一臼を約一時間かかってつく
   ことが当たり前だった。稲こぎも全部万力でこいだ。一人
   前の仕事が出来るひとで一日にフゴに三杯こいだそうです
   。稲こぎに脱穀機を使ったのは昭和十年頃からだった。

 農道 

   田畑を耕作するために田畑の境などに造った幅の狭い通る
   だけとも言える道(車が無かった時代は人が通れたらよかっ
   たので狭い道だったので何合道といっていた。一合道は幅
   六寸の道だった。)車が普及するにつれて農道も耕作者が地
   先を提供して広げて車が通る道にし、戦後三、四十年を経
   て農道も殆ど舗装され今のようになった。

 のぞき節

   今から五十年位前迄縁日などに のぞきと言う紙芝居の大
   きいみたいな見世物がやってきた。そののぞきを見せる人
   が節を面白く説明してくれた。その節が面白いので真似を
   する人もいた。

 野がまにかまれる

   昔と言っても戦前何かの拍子で転んだりした時切れるもの
   が無いのに可なり大きな怪我をした事があった何で怪我し
   たか分からないので野がまにかまれたと言って恐れた。戦
   後はこの話は聞かない。

 のぼり

   お祭が来ると各戸にのぼりを立てて祝った。そのほか部落
   にものぼりを立てて祝った。また男の子が生まれると五月
   の節句には武者絵ののぼりを立てて節句を祝った。