はの部             () () () () ()


 垣生の機織

   女が嫁入り前の習いごとの一つとして機械を習つた.
   機織の縦糸は十七よみで一よみは糸八十本でできている
   から機織の縦糸は一千三百六十本ある.それをカケイトに
   一本一本通すのに二人で約三時間かかった。機繊で
   一反織るのに大体一日であった.昭和になってシヤクリ機
   を購入する人がぼつぽつあって機織の能率があがった。


 履物

   ゴムが普及したのは大正の末でゴムは始め履物に多く利用
   された。ゴムの靴は真っ先にはやった。ゴムの靴が普及す
   るまえは藁で造ったゾーリを日和に履き雨降りに下駄を履
   いていた。

 初穂

   収穫した農作物を神仏にお供えすることをいった.

 はしる

   駆け落ちのことを言った

 版木

   大正まで小学校の校時の合図に鳴らした厚さの厚い板。
   よく通る音がした。後鈴に変わった。

 箸の使い方でいけないと言われたこと.(名前だけあげます)

   さぐり著  涙著   揃え著  持ち箸  置き箸
   叩き箸   寄せ箸  迷い箸  差し著  ねぶり著
   握り箸   落とし箸
 等をやっては人に笑われるぞと昔は小さい時からしつけられた

 伴奏楽器

   唱歌(今の音楽)の時間に歌を歌う時の伴奏楽器。
   明治時代は殆ど楽器無しで口で教えてくれた.大正に
   成ってオルガンで伴奏して教えてくれた.オルガンと
   いってもベビオルガンであった.ピアノは昭和8年
   アメリカにいた三木雄三氏か寄贈してくれてやっと
   唱歌の伴奏らしいものが出来た。

 半襟

   女の人が和服を着るとき半襟を下着に掛けたが、
   明治時代の半襟には模様が入っていた.大正に成って
   半襟は無地を好んで付けた.(それも白が多かった.)
   明治時代は半襟がよく見える様に着物の襟を開け半襟が
   見える様に着物を着た。

 花塚行列

   昔お嫁さんは行列を造って嫁入りしたものだった。

 初風呂

   年の始めに始めて風呂に入ることを言った。
   垣生の銭湯も大晦日には営業せず元日は除夜の鐘と共に
   営業をした。(初風呂と言って)

 初夢

   年の初めにみた夢を言った。縁起のよい夢として 

   一富士 二鷹 三茄子 四葬列 五火事といっていた。
   また夢は最後迄みると良いと 言いった.特に火事の夢は
   燃え上がると良いと言っていた。良い初夢をみたいために
   宝船の絵を枕の下に敷いて寝たりした。

 はこせこ    

   女の人がお嫁に行くとき正装の胸に挟んだ小さな
   箱の様な物。中に昔は春画を入れていたらしいと
   或る人が話してくれた。


 初鯛

   お嫁に行ったうちからお嫁さんの両親に鯛の獲れる時に
   鯛(さわらを持っていくように変わった)を持って
   行くことを言った

 パン豆

   垣生では昭和十年代から。

 花方

   太鼓台の運行している時 花を呉たのを大声で皆に
   知らし会計をする役昔は派手な長じばんを着て赤い
   帯等結んでいた.なにせ花形だった。

 鼻ご

   牛が人間の意のままに動くように鼻に木で造ったハナゴを通した。

 藁細工

   百姓は余暇に色々な藁細工をした。縄 俵 むしろ 
   かます ふご 草履 わらじ ほうき 腰掛 保温器 
   円座 じょうご しめなわ 等、器用な人は俵飾
   (鶴 亀 松竹梅等のめでたい時俵の贈り物をするときの
   師物などもつくった)を造った。

 羽子板    

   女の子がお正月等に羽つきをした・その時次の様な
   歌を歌った。


ひとめ ふため みゎとしや よめご いつやの むかし ななやの やさし ここのやの とーかし よめご等歌った。

 バッタン

   冬によくやった。飛行機バッタンもあった(男の子の遊び)

 般若入れ

   夏元気に過ごせる様にと青年が般若入れをした

 ハレースイ星

   明治の末ハレースイ星が地球と衝突しやせんかと騒いだことがあった

 浜普請

   塩田の地場が悪くなると浜普請をした。

 花見

   垣生の人は春 次の所え花見に行った

 
 乙女山

   観音さん(小山)坊主山 武丈 すすきが原 又野山 岡本 広瀬公園 榎のもと(ボタン)等

 
 母親のしつけ

   昔母親が子に次の様な事を口癖に言って子供(特に女の子
   に徹底するように)をしつけた。 生き物をいじめるな 
   家の入り口の敷を踏むな 畳の縁を籍むな 御飯をこぼす
   な 等


 パン

   垣生にパンが入ってきたのは大正の終頃 
   遠足の弁当におやつとしてパンを持って来ていた友達を
   羨ましくおもったことがあった.


 バッタンの絵

   子供の遊びの王さん のバッタンには色々な絵が印刷され
   ていた。印刷された重な絵は、相撲取り 軍人 武士など
   であった


 著の置き方

   頭を右に先を左に置なさいとしつけられた。


 裸の思い出

   裸で居るのを見つけられると.お回りさんに叱られた.
   大人等は科料を取られたりした.(大正の終頃のこと。)
   如何してそんなにやかましかったかというと、外国人に
   野蛮国だと笑われるからとか。夕涼みに縁台で肌脱ぎで居
   て叱られた人もいた.米一升五十残の時一円の罰金を
   払わされた人もいたらしい。)


 八幡市

   明治の終わり頃始まった。戦前戦後暫く休んでいた。

 ひの部 (上へ)

 ひやかし言葉  垣生の茄子食い 垣生のカニ拾い

   あの娘は樽入れじや(あまり魅力のない娘は他村の青年と
   見合いして嫁入りするしかみちがない。他村へ嫁入ったら
   お祭に樽入れがあるから他村しか嫁にいけない娘のことを
   ひやかして言ったとか。)

 
 病気      

   昔は今の様に病気になると直ぐ医者に診てもらう様な事は
   なく軽い病気は手薬で済ませた。年寄りに聞いたり先輩に
   聞いたりして薬(多く漢方薬だった.)を自分で造って飲
   んだ.


 使った薬(中にはどうかと思う物もあるが)

   ヨムギ ジュウヤ カンゾー
   たもとのごみ(ちょっとした傷)

            

お医者さんに往診してもらう時は重体の時だった。
   (戦前は無論健康保険等無かった。)



 ピンチョ

   男の子が小さいとき頭の髪を短くしていたが健康に育つ様
   にとの願いからピンの毛を長く伸ばしていたそれをピンチ
   ョと言っていた。

 百寿の祝い

   長生きして百歳になると家族親類近所の人が集まって
   お祝いをして上げた.先ず神様にお供えをし鏡を割って後
   大通りに出て通行人にお酒を飲んで貰った。

 昼線

   昭和二十年代の終る頃まで電灯は定額制の家が多かった。
   定額制の家は夜間だけしか電気が来なく昼間はラジオも
   聞くことが出来なかった。昼も電気が来るうちを「あそこ
   には昼線がきている」といっていた.昼線を引いて貰うに
   はメートル器を家で買わなければならなかった。が昼線を
   頼んでもなかなか引いて呉なかった。

 火の用心

   青年が夜間拍子木を叩いて「火の用心」を振れて回った。

 病気と迷信

   病気に成るのは「物のけが体に付いたからだ」と言う人も
   いた。その物のけを除けるのだと言って色々な事をした事
   があった(拝んで貰ったり 時には叩いたり 松葉で
   ふすべたりした事があったとか。)


 披露宴

   婚礼の披露宴は戦前は大抵婚さんの家でした。親類近所の
   女の人が集まって料理し酒もたんと用意し大概朝まで宴会
   が続いた。他村からお嫁さんがきたときなど人足は酔いつ
   ぶれてしまうことが当り前だった。


 人を雇うにいつていた言葉

   十月の中の十日に気の無い人を雇うな。
   四月の中の十日に心無い人に雇われるな。


 人玉

   人玉の話はそこここにあるがどの話も具体性がない。


 人さらい

   昔子供が夕方遅くまであそんでいると親が又大人が子供を
   戒める為に言っていた言葉.聞いた子供は素直に大人の言
   うことを聞いて家に帰った.


雛の古くなったもの  
   海に流した.(流すのに日がきめていなかった。)

 飛行機が飛んだ

  大正八年頃国領川の川原にむしろで囲って滑走路を造って 
  複葉の飛行機を飛ばした事があった。
  (角野の某さんが世話をしたらしい)大勢の人が見物に行っ
  た。中には乗せてくれると思っていた人もあったらしかった

 ひがしやま

   イモをゆでて薄く切り藁にとうして寒風にさらして
   乾燥させたもの甘くて最も上等のおやつであった。


 人の批判の言葉

  賢い 豆な 不きょう おっちよこちょい がいな 
   さらこい とろくさい うんとろけ 等と批判した.
 桧       

   垣生山に昔桧が少なかった.昔の人が桧が垣生山で育たな
   いといっていた.

 ヒルに吸い付かれたら.

   ヨムギをもんで其の汁を付けるとかゆみが取れ跡も残らず
   なおると教えてくれた。


 火と不浄

   昔の人は火は不浄を嫌うと思うていた。おくどさん(かま
   どのこと)の周囲を特に奇麗にしていた.もしくどの上に
   上がるときおことわりして上がった.火事の時女のお腰を
   旗の様にして立てて火の神様に帰ってもらう様にと呪いを
   したりした.

 百人一首

   冬に青年が娘さんの家に遊びに行って「カルタ取りせんか
    」といって二組に分かれてよく取った.(大正時代は特に
   盛んだった)

 日掛け貯金

   昭和の始め頃農会で日掛貯金をした事があった。日曜以外毎
   日決まった時間に家庭を回って集金して貯金した。


 ふの部(上へ)

 物物交換

   待合谷で昔物物交換したと言う話が残っている.明治の中頃
   あげ(今の上部)から柿等を持ってきて垣生の灰等と交換し
   たそうです.

 フンドシ

   男子のしたばき 始め約二メートルの木綿の白布を用いてい
   た.後越中フンドシを用いる様に成った...

 部落総会.

   時々行なった。法泉寺 三味所等で

 不作      

   稲作の不作の時地主に見てもらって年貢をまけてもらった。

 仏教に関係ある言い伝え

   ムカデを殺すと千回念仏したのとおなじ位功徳がある.仏飯
   を娩さんが食べると縁が薄くなる.(お嫁にいくのが遅くな
   ると言うこと) 仏壇は夜は閉めなさい仏様も夜はおやすみ
   になる。

 副食物

   百姓等で現金収入の少なかった時代は漬物が主であった・

 普及員

   大正時代養蚕の盛んな時養蚕の指導をした人を普及員と言っ
   ていた

 夫婦の呼び方

   昔夫婦で次の様に呼んだ人がいた

   夫が妻を よ−い おい こら ね−はん 
   奥さん(ひよげて)
   妻が夫を 大将 とうさん あんた おいはん 
   ちょっと 旦那

 船の事

   造船 垣生は海に面していたので造船が盛んで有ったが主に漁船を造っていた.漁船のうちサワラ船は垣生に三十隻あまり漁船は二百隻余りもあって浜が張った。船には釣船 エビ漕ぎ 流せ船 千石船 テンマ船 ウタセ船 上荷の船 回送船等があった.(水田だけに使う田船もあった。)船を動かすにはロ カイ サオ等を使ったが今の様に動力を使い始めたのは大正時代の中頃過ぎから.どの船にもエンジンを付ける様に成ったのは昭和三十年を過ぎてから.船を新しく造って始めて海に浮かべる事を船おろしと呼んで船の安全を祈り、餅投げをしたりお酒を振る舞ったりした。


 フゴ

   農作物を入れる物 お米が大体一俵入る大きさが多かった。(藁で編んで造った。)

 風呂に入らない日

  正月と盆の十六日は地獄の釜も休む日だから風呂に入ってはいけないと言ってお風呂に入らなかった。 

 船魂さん

   船が安全な様にと神様を祭った。その神様を言った。お正月には丁寧なお祭りをした。

 古い店

   垣生は戦前は川東の商業の中心と言ってもよいほど栄えていたが段々交通の変化等で商売がやりにくなって店を止める様になり古い店が無くなった。 

 文具

   学校では大正の終りころまで石版をノー卜の代わり使い鉛筆の代わりに石筆を使っていた.鉛筆は貴重品だった.クレオンは大正十年前後からつかった

 船箪笥      

   かなり大きな船の貴重品を入れる金庫の様な物.明け方がむつかしかった.

 深い水田

   垣生の八幡一丁目二辺りにとても深い水田があった.田の中に入ると股まで埋まったと言う話が残っている。

 冬の暖房

   先ず挙げるのはコタツで堀コタツが多かった.コタツ以外で
   火鉢 湯タンポ 練炭 豆炭等もよく使った。

 フグの中毒

   垣生にフグの中毒の話が残っている。昔中毒になった人を首
   だけ出して体を土の中に埋めて治そうとした話が残っている
   .またトイシを枕にして寝かしたりもしたとか。

 フグがかかる

   身近な人が亡くなるとブクがかかるといった.ブクにかかる
   祭事に関係のあることをしたりしてはいけないといわれた

 船酔      

   船酔に限らず乗物に酔うことは苦しい。 昔から乗物に酔わ
   ないようにする方法として南天の葉の汁を吸うと治ると言っ
   ていた。

 筆入れ

   今鉛筆入れと言っているもの.今筆は筆巻きで持ち運びする
   ようになったが昔は鉛筆と一緒に筆入れに入れることが多か
   った。筆入れは始め木製だったる大正になってブリキ製が売
   られるようになった。

 袋物

   昔の人が旅に等出るときどんな袋物を持っていったか.
    シンゲン袋 ヤナギゴウリ (バスケット) トランク 
   シナカバン (全部皮でできていた) 等を持って行った.

 
 への部(上へ)

 弁当

   大正の中頃迄弁当は柳ごうりに詰めて持っていった。農作業
   に行くときはおヒツを弁当フゴに入れ上にお茶碗等を入れて
   持っていった。(農作業は大概家族全員でやったので田畑の
   まくらで家族揃って弁当を食べた。

 蛇の話

   垣生山に太い蛇がいたが毒蛇はいない.太い蛇の話が残っ
   ている。昔話の中に載せたので略す.

 弁財天

   昔川口辺りに小さなお堂を造っておまつりしていた。今位置
   を誰も知らない。塩田があった。明治のおわりに塩田が廃止
   に成った。

 便所の呼びかた

   昔便所を次のようにもよんだ。センチ チョウズ 
   ショベンタゴ

 弁当に持っていったお茶のしまつ

   若しお茶が残ったら必ず始末して帰へれといった.若しその
   まま持って帰ったら娘の縁付きが遅くなるぞといっていた。

 平素の着物(普段着のこと)

   生地は木綿でカスリが多かった。娘の中にはガスメイセンを
   好んで着たものもいた。矢カスリの模様を好んだものです。

 ヘソの緒

   昔から大切に保存した。

 蛇のこと.

   蛇に呑まれた話は垣生には無い。藍染めのキヤハンを履いて
   いると蛇が寄って来ないといっていた.(家に居る蛇は大事
   にせよと昔の人がいっていた.).

 弁財天の釜屋

   明治の終わり頃四軒あった・大西釜 広潮釜 出来屋釜 
   大東釜の四軒だった.今位置を知っているものがいない。

 へんど隠し

   昔 家の入りロに半間の壁をつけてそれをへんど隠しといっ
   て人の目に付いたら体裁が悪い物など置いたものだった。


 ほの部(上へ)

 方言

   垣生には方言が多い。この項に付いては既に調べて書いて
   いるので略します。

 保存食

   食物の保存の仕方については次のような方法をやった.

   1  乾燥をして保存した.里芋の茎 大根(細く刻んで)薩
      摩芋(カンコロにして) 柿 (干し柿にして) 等

   2  塩清けにした ワラビ 魚肉 等

   3   味噌漬にして 野菜等

   4   酢に漬けて 梅の実 ラッキョウ等

    5   ヌ力漬け 野菜をおもに。


 ボタモチ(お萩とも言う)

   ボタモチを造る日は別に決まっていなかった。お灸をすえる
   時やお盆 七夕さんの日等に造った事が多かった。

 防寒具     

   衣服は絹入れを多く用いた.子供は袖無をよく着た。
   大人の男子は和服の上に着ていた.今の中・高生ぐらいの男
   の子はヒキマキを防寒具として着ていた。インパ ヒキマキ
   は和服の時も着た。

 奉公に行く

   地元産業の少なかった垣生の青少年は跡取り以外は小学校を
   卒業すると奉公に行った。(奉公は今の出稼ぎと違い働きに
   行ったうちに泊まり込奉公に行ったうちの仕事をしていた。
   朝は早くから夜ま遅く迄働いた。或るお年寄りは朝便所に起
   きると働かされるのでじっと夜が開けるまで辛抱したもんだ
   と話をしてくれた。)奉公にいくさきは男子は因島 呉 九
   州 大坂 岡山等が多かった。女子は岡山が多かった.(女
   子は嫁入り前の女の修業の為もかなりあった。)

 歩兵に入隊

   垣生の青年で歩兵に入隊する場所は次のように変わった。
   松山−丸亀−松山−善通寺−福山−松山−徳島−松山という
   ふう

 法事      

   明治時代から大正時代は丁寧に法事をしていた。
   法事の後の食事でお酒が出たが酔っ払う様な事は殆ど無かっ
   た。
   大人が何人居ても酒一升で済ました。
   米一升に二銭が多かった。

 防空ごう

   太平洋戦争が激しくなって空襲があると必要となって防空壕
   を造った。垣生山の造りやすい所に造った。中にはハデ竿を
    入れる位な大きなのを造った者もいた。

 豊作の願い

   多く神仏に願った。
   神様=祈年祭 秋祭り 新なめ祭り 
   おさかばいおろし おさんばいあげ 虫除の祈り等

 訪問のしきたり

   他人の家を訪問するときの心得として教えられたこと。
   裏口から行くな(昔は家の周囲には塀とかなし。どこでも行
   けた)座敷口から入るな、 朝早くカら行くな(特に女は 
   正月の元日に女はよそを訪問すな

 帽子        

   昔かぶっていて今少なくなった帽子。又見ることが出来なか
   った。
   カンカン帽 鳥打帽 パナマ帽 中高帽子。
   帽子でないが日除としていたのに今減多に使わないもの。
   スケガサ タッコロバチ(雨降りに使った)編笠等

 ほうずき    

   主に女の子が口のなかに入れて鳴らした遊び。ホウスキの草
   の実の中のみをだして鳴らして遊んだ。ゴム 豆の実 イソ
   ホウズキなども鳴らして遊んだ。
   主に女の子が口のなかに入れて鳴らした遊び。ホウスキの草
   の実の中のみをだして鳴らして遊んだ。ゴム 豆の実 イソ
   ホウズキなども鳴らして遊んだ。

 方角が悪い

   旅立ちや嫁入りにそちらに向いて行ってはいけないと言って
   いた迷信。日によってその方角が違った。悪い方に行かない
   といけないときは方よけをして行った。

 奉公に行くとき、口入れ屋がいて世話をしてくれた。

   一旦奉公に行ったら途中で(期限内といういみ)止めることがむつかしかった.止めたくても代人を呼んでこいと言われた事もあつたとか。奉公に行って途中で止めたりすると一人前に取り扱ってくれず、女の子はお嫁に行くのにも「あの娘は奉公をけつ割った娘だ辛抱出来るかな」とも言われるので、辛くても辛抱した。

 でこまわす

   垣生で使った方言で 唐芋を食べる事をしゃれて言った。

 ボール遊び

   大正の末頃ゴムのボールが子供の遊び道具として盛んに使用
   された。男の子はボールを投げて屋根を越させて喜んだもの
   です。