まの部

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  マッチ    垣生には明治三十年代から入った。づっと昔は火打石とパンヤで火を起こしていた。マッチは貴重品だったので、ツケタケも使用して少しでも節約した。

 ○前山の雪と作柄の予想    昔の人は前山に雪が七日消えないでいるとその年は豊年だといっていた.それから垣生山に雪が三日消えない年も豊年だといっていた。

 ○まりつき   女の子はまりをついて外でよく遊んだ.ゴムマリが売り出される迄(ゴムマリは大正十年頃垣生の雑貨店の店頭に姿を見せた。)綿で追ったまりをついて遊んでいた。てまりを付きながら次の様な歌を歌ったそうで

一匁日のいすけさんいの字が嫌いで
一万一千一百石 一斗一斗一斗桝 
お蔵に納めて二匁目に渡した。
(以下略す)
一匁日のいすけさん 芋買いに走った ラショーカセー  
二匁 ニンジン  三匁 サカズキ   
四匁 シンザケ  (以下略す)

 ○松の中  垣生四丁目一の二九辺りを言った。昔大きな松の木が沢山生えていたので松の中と呼んでいたそうです。昔大きな松の木が沢山生えていたので松の中と呼んでいたそうです。

 ○枕飯のこと     人が亡くなって死人の枕元に供えるご飯このご飯は家人訴炊かないようにした。お茶碗に高く盛り著を一本立ててお供えした

 ○まわしもの     戦前小学校で 綴り方 書さ方.図画 等の成績物を綴って家庭へ回覧した。それを回し物といっていた。

 ○ままごと遊び  昔はままごと遊びの道具は無かったので木の葉貝殻木切れ竹の切れはし等を道具に見立ててままごと遊びをした。今の様にままごと遊びの道具が店に並んだのは昭和の始め頃だった。

 ○豆本  大正の終り頃豆本が子供たちによく読まれた。

 

みの部 (上へ)

  民情    垣生の人は教育に熱心であるが貧乏な人が多かた。能筆家が多く、家計の無理をしても上級学校に進学さすものがかなりあった.

          

 ○宮参り   子供が生れて約三十日たつと子供が丈夫に育ちますようにとお宮にお参りに行った。
七五三のお参りは昔はしなかった。秋のお祭の氏参りは丁寧にした。

           

○水着 
 垣生は海に突き出た半島といってもよい地形なので夏が来ると東沖 北沖で大人も子供もよく泳いだ。子供は小学校の三四年ぐらいまで裸で泳いだ。女の子はお腰だけで泳いだ。海水着を着て泳ぐ様になったのは昭和になってからでした。

○道普請   青年か青年団を組織し色々な行事をした。其の一つに道普請があった道普請の日は青年が朝早くから大八車に海岸のバラスを積んで道の悪い所に入れ て通っ易い様にした。(垣生にアスファルトで道を舗装したのは昭和三十年代に入ってから)女子青年はその日は簡単な炊き出しをした。

 ○みせもの 昔縁日等に見世物がよくきた。見世物たは次のような物があった。ろくろく首 こびと 猿芝居 闘犬 クモ娘 ノゾキ 手品 奇術 等

蜜相     垣生山に蜜相を栽培。いまのようになったのは戦後から。

港 
垣生には港として東港 北港がある.大正の終り頃(
汽車が開通するまで)北沖に小さな汽船の定期便が寄港していた。深い港がないのでハシケで連絡していた

みそぎ       石鎚さんに登るとき等身を清める意味で海水につかりみそぎをした。

味噌汁    
今のように毎朝味噌汁を食べる様になったのは戦後からであった。

夫婦池      
今の知元病院の近くにあった.道を挟んで二つの池が あった。其の池で夫婦が投身自殺したので夫婦池と言ったと言い伝えがのこっている

むの部(上へ)

麦打ち 麦こぎをし 太陽にあてて十分乾燥できるとカラサオて叩いて脱穀した。其のとき「盆が来なら麦に米混ぜ て ササゲとぽとぽあうめさい 盆がきたなら麦に米 混ぜて牛の寝よなサパ添えて」等の麦打ち歌を即興でうたいながら作業した.

虫除 農業の所に詳しく書いたので略します。
むしろ昔農家で農作物を乾燥等するときに使った敷物。藁で織った.一枚は縦一八〇センチ横九〇センチ位の大きさ。むしろの縦縄は四八本であった。

麦踏み 戦前は殆どしなかった.ある家で子供が冬たこ掲げに夢中になって麦畑に入り麦の上を踏んでいた.始めは叱って居たがつづかないのでほって置いた。
その年子供が麦を踏んだので出来が悪いと思っていたのに麦がよくぶんけつして豊作だった。それから麦踏をするようにした。近所の人も真似る様になった。

婿入り 結婚の日に花婿が花嫁の家に行って花嫁の家族親類に挨拶したことを言った。

麦の耕作   
昔は今と遠い非常に労力が掛かった。先ず稲株を一株づつ株初り鍬で切る様におがしそれを牛鍬で溝を造り
くれを細かくし麦種を蒔だ。芽がでると草取溝揚げ等
   かなり手間がかかった。

娘さんの家に遊びに行くこと
 戦前青年が夜になると娘の居る家に遊びにいったものでした。遊びにいって四方山話しをしたり、冬にはカルタ(百人一首のこと)を取ったりした。娘さんも家 人も青年が遊びに来ることを歓迎したぅ其のなかから結婚に発展したりもした。

虫歯の事

    垣生の子供に昔は虫歯が少なかった。 一般に歯が丈夫だった。海草を沢山食べたりなまものを多く食べ たりしたからだと言う人が居た。

麦の品種     大麦−こびん    小麦−おおきんこ こきんこ   裸麦−島太郎

めの部        (上へ)

迷信    戦争に関係あるものは (せ) のところを見てください。タクアン等お皿に三切れはつけてはいけないと 言っていた。(三切れは身切れに語呂があうのでか)数では偶数を嫌った.奇数の内切ったものは三を嫌った。

 ○珍しい話    明治三十年頃エノスの十六貫(約六十キログラム)のを釣上げた

○米吉さんがタコにもうちょつとで命を取られかけた

○或る漁師がサカナを釣に行ってタコの大きなのが釣れて測ったら脚の長さは船の幅あった。

○勇吉さんが子牛程もあるイヌを飼っていた。

○銅山の洪水の時(明治三十二年)垣生 も水がついた.

○新田の土手が切れて又野まで水がついた。

     

    

垣生の太鼓と宇高の太鼓が大喧嘩した。(明治二十七年)    
とうとう宇高の太鼓を壊して燃やしてしまった.

 ○名工    垣生で大工の名工と言われた人。イワサの定造さんはカンナ掛が右に出る人が居なかった.ナオ大工は腕立ちで法泉寺の門を建てた.善通寺の五重の塔を建てた大工も垣生の人だった(伊藤俊造さんの祖父さんとか。鶴大工も腕立だった。)

明治時代の女の仕事    賃仕事は致って少かった。百姓の手伝い 網すき サラダ編み (サラダを一反編んで五銭位だつた。)当時の女子の賃金は大体米一升買える金額だった。

 ○眼鏡の思い出    年取った人で眼鏡を掛けている人もあったが、今よりうんと少なかった.今より字が大きかった。だが今の人は大体視力が衰えて居るようだ。
年取った人で眼鏡を掛けている人もあったが、今よりうんと少なかった.今より字が大きかった。だが今の人は大体視力が衰えて居るようだ。

飯の種類
 こめめし むぎめし ひえめし こうりゃんめし あわめし たきこみめし いもめし あずきめし あかめし (ぞうすい) せきはん(赤飯) なめし だ いこんめし たいもめし 等

○飯の回数   粗食(栄養価の低い食べ物)だったので食事は今より回数が多かった。
 (朝飯 小昼 昼飯 茶飯 夕飯 夜食)時に夜食を寝ている子を起こして食べさせることもあった.

メンコ    子供の遊びの一種(今もこの遊びを子供がしている)大正の終り頃まで、メンコを子供が追って遊んだ。メンコを陶器のかけらを丁寧に割って石などでみがいてメンコの形にしたものだった。

メイチュウ駆除
 農薬の無かった戦前メイチュウの被害を少なくするために苗代のメイチュウやメイチュウの卵を小学絞の子供が午後の授業を休んで苗代に入り、害虫取りだと言って苗を踏まない様に気を付けて捕まえ葉の裏の卵を取って役場に持っていって数えて貰って僅かのお金を貰った.その時先生が監督と言って子供とともに苗代に入ってともに害虫駆除をした.今は農薬が研究されその姿が無くなった.また田植機の普及によって苗代も殆ど姿を消してしてしてしまった。

○めよい   農家の若衆などが冬が近付いて夜が長くなった頃 何人かが談合して各々自分の家から食量を持ちより寿司混ぜ御飯等を造って食べた.それらをめよいするいって青年の楽しみの一つであった.このめよいも昭和の始め頃から段々廃れた.

もの部(上へ)

もみすり          
稲刈りがすみ稲こぎもすみ モミの乾燥が出来るとモミすりをした.モミすりは昔は全て人力でした.モミすりにはどうしても六人以上の人が必要だった.(モミ入れ一人 モミ出し一人 する人二人 トウミ一人 すくいこみ一人等)
モミすりは食事の時だけ休んで休憩は殆どしなかった.食事は回数を多くした.モミすりの費用としてして 大体米一俵をあてた。モミすりには御馳走の一つとして牛肉を買った.(大正の始め百グラム八残ぐらいだった)モミすりを賃金を貰って専門にやる人これも大正時代から出来た。モミすりが終るとモミすり飯を近所に配つた.賃ずりは一俵する賃金は大正の始め頃三銭五厘だった.モミすりの時よく唄を唄った。次の様な唄を唄っていた

    ※賃ずりや 迷いの鳥よ 何処の館で唄うやら  
娘十七八は新造の船よ 人は見たがる 乗りたがる 
好いたお方と うす引きしたら 
うすは牛車じゃ 宙でまわる 

風か柳か 柳か風か 変わりやすいは 
人心 あの子 よい子じゃ ぼた餅顔じゃ 
黄粉つけたら 尚よかろう 

さいた杯 くるくるまわる 
わたしゃりんきで 気がまわる 
嫁に やるなら 鍛冶屋さんにおやり 
足で飯たき 手でのばす.


餅をつく         正月 祭り 報恩講(浄土真宗のうち)巳の日(真言宗のうち)年賀 家の新築 子供の初誕生日(一升餅を負わすこともあった)

餅つきでしてはいけないといわれたこと.   
ついた日に焼いて食べてはいけない.生理中の人が手伝ったらいかん.  餅を股いだらいけん  数をかぞえない  そまつにしてはいけない 土などでたたいたらいけん

餅の種類          次の餅をついた。
白餅  おふく餅  芋餅  
こごめ餅  アワ餅  キビ餅  ヨムギ餅  砂糖餅  たかきび餅 かき餅(かき餅に黒大豆 胡麻 海苔 あおさ 砂糖等をつきこんだのもあった.)

餅つきの時の役目      準備後始末は男子がした。餅を保存する方法としてかめにつきだちをいれる・適当な時期に水を入れて水餅にする。


餅米を他人に贈る心得         一升を贈ることはいけないと昔から言われていた。

物置   
物置を昔きびや 納屋ともいっていたことがある.

もやい          昔道などを修理するとき部落総出ですることがおおかった。それをもやいといったことがある.

元の神様正直じゃ      昔よく使った言葉(物事の決定に迷い、しかへしをしたり、試したりしてみて、一番始始めに考えたり、手を付けたことがよかったときに言た言葉)


もいでる         かまど 風呂等にたきぎを燃やす時よく燃えてかまどより手前に炎が沢山出るような時にいつた言葉

もがす   
話し等で言葉をはぐらかす様に言うときに使った。

もつき          今 おしめと言っている.しめしと昔の人が言っていた。

ものになる      昔希望がたっせられた時に使った言葉

やの部       (上へ)   

屋台         今と大差がない。垣生では紋日に屋台がでた。常設の屋台がなかった。

病(やまい)と民間薬   
昔の人は病気になっても始めは民間薬で一時しのぎをすることが多かった.次ぎのようにした.

ハシカ          イセエビの穀を煎じて飲ました。

ガ ン      
サルノコシカケを煎じて飲むと利くといった。

寝小便         ネズミの足を煎じて飲ますと止むといった。

リン病   
青蛙を生きたまま飲むと治るといっていた。
   タンのつまる 青竹をあぶつてでた汁を飲むとよく効く。

熱 柄          ナメクジ ミミズを生のまま飲ますとよい。

ソ ゲ      
ソゲが立って抜けない時は蛇の抜け殻を張ったら良い

   (これらは今やらないようにしてください)

やまめじく         昔結婚の日は良い日として大安の日を選んだ(これは今も同じ) 大安の良い日の中に時にやまめじくの日 があって その日に結婚すると子供が生まれなかったり 離婚になったり 寡婦になったりすると言った悪い日(今これを言う人が殆どいない)

やすやすをかける   
家を移転などするとき家財のうち安価な物等を競売にすることを やすやすをかけるといった.

屋根屋          屋根替え、昔は屋根は殆ど藁屋根だったので四年か五年に一度屋根の葺き替えをした.屋根替えの時には近 所の人が手伝ってくれた。屋根替えをした晩がた ごもく を造って配った。

厄年      
このことについては生まれて死ぬまでに載せたので此処
では略します

厄を逃れる方法         お宮で拝んでもらう.大事なものを捨てて拾つてもらう。節分の夜赤いものを身につける。

厄年にしてはいけないと言われたこと。   お墓を造らない.家を新築しない.

ヤカンの口          ヤカンの口を北に向けて湯を沸かさないようにしなさい。ヤカンの口から水をヤカンの口に入れないいこと 等しつけられた。

やさ男      
これを軽蔑語としたとき次のような男を言った。  ひ弱い男 ひな男  もやしみたいな男  おなご男  にやけた男 男芸者  いろ男等をいっていた。

山しばり         大正になって家庭燃料が不足ぎみになったので速く成長してよい燃料になる山しばりを植林した(山しばり のことをはげしばりともいった)何年かに一度切り出し燃料にした。

山の神   
垣生山に山の神をなんか所か祭っていた。昔話にも山の神の話が出てくる。
(戦争で大きな木を切ってしまって段々山の神のことが分からなくなった。)

やいと          お灸のこと 昔は銅山の見える所に住んでいるとやいとをすえないと身体がもたないといってよくすえた。 やいとはヨモギの葉を乾燥させて造った。が温泉のあるところに旅行した人がお土産こ買って来て配った。

やいとをすえる      お灸をすえる時よくきくようにといろいろな事をやった。すえるとき始めやいとに火を付けてすえる所のうえを  ねんじんひろき ねんじんひろき といって悪魔よけをした。すえ終ると手でしっかりおさえキセルがあるとそれでもおさえた。あとに種油をつけてウグワナイように祈った。やいとをすえる時豆等煎てくれた。ウンコウ日にはやいとを据えてはいけないといっていた。

ヤックチ         女の着物の脇の下のあきを言った。

焼き米   
昔もみまきの余りのもみをコーラで煎ってそれをうすでついてもみがらをみでさびて除き焼き米とした。食べると顎がだるくなったがおやつの無いときよいおやつになった。近所へも配った。

野球          昭和の始め中学生が垣生でチームを作って他村と試合したことがあった。大正の始めベースと言って今のル−ルに似たもので遊んだ事があった。ボールは布で造りバットが無く手で打ったものであった。従ってグロープ等も無かった.手袋の深いものでやったものだ。

柳こうり      
柳(垣生に無い特別な種類の柳)でこうり(衣類等を入れる又運ぶ時に用いた 今の衣類箱の様な物を造った物をよく用いた.又お弁当用の小さなのもあった(今でも人事に使っている人もいる)

山番の賃          今垣生山の番をする人などいないが 戦前家庭燃料を自分で工面しなければいけなかったとき山に植林した木も切ってしまうので山の番人を山を持っている人にしてもらっていた。したがって番賃は山の広さによってだした。年に二度に分けて出した。

休みの日      
田の神のお祭りの日 この日は 田畑に出てはいけないといはれていた

山の神の祭りの日          この日は山の神が山の木を数える日だから山に入ってはいけないと言っていた垣生には年間約四十日の休む日があった。五分休み五日に一度午後休むのをいった 。七分休み 七日に一度午後休む。今の様に日曜日が休みと言うようになっていなかっが休みはかなりあった。正月の月など殆ど一か月休みが続いた.

厄払いのこと      女が三十三の厄払いに氏神様に木綿の反物を織って氏神さまに奉納したことが昔あった。

やまとの天井          昔の農家等で今の板天井をはっている所に竹のすのこをはり…其の上に麦藁で編んだこもを敷き其のうえに赤土の練ったのを敷つめた天井 この天井は冬暖かく夏涼しく火の用心にもなったが体裁が悪く廃れてしまった。

ゆの部        (上へ)

床のあれこれ      明治の末頃迄に家の床に竹を編んだスノコの上にムシロを敷いた家があった.大正時代に入って養蚕が農家でも行なうようになって床に板を張るようになった。 家には畳を平素敷いていないうちがかなりあった。畳は部屋の隅に積んでおいてお客があると敷いた.

夢のこと          昔夢について次のようにいっていた.蛇の夢をみるとお金ができる.死んだ夢をみると元気になる・よい夢は人に言うな人々に取られるから悪い夢はすぐ言え。人にあげよ。歯の抜けた夢をみると身内の人が死ぬ.気をつけよ。色のついた夢をみるとノイローゼになる。

結納と着物      昔結納の時には着物を新調するものだといっていた。肌着まで新調するものだど言っていた。

湯上げ          大体戦後から使用しだした.それまでは手拭タオルで済ましていた。

遊具      
昔小学校の校庭には次の遊具はあった。回旋塔 遊動木 ぶらんこ(今のぶらんこの倍ぐらいの高さがあった。ぶらんこの支柱は木であった。)鉄棒(これも支柱は木であった)

ゆい          講内に病気などで農作業等遅れる家があると作業を講内総出
   でしてあげたりした.それをゆいといっていた..

由緒ある井戸      今残っているのは山端の三昧所の井戸で良い水が出る.この水は山のしめだしの水でとってもよい水である.

よの部       (上へ)

夜這い          昭和の始め頃迄青年は夜になるとあかりの下で読書等せず娘さんの家に遊びにいって世間話をして帰ることか当前になっていた。これを「遊びにいく」といったり「夜這いに行く」などいっていた。他の地方の夜這いの様に異性の所に忍んで行って性的な交渉をといはないのも夜這いといっていたこともある。

用水      
水田に水を
(ほしい時いつでも入れられるようにすることは、)米を作る農夫の共通の願いでした。船木の池田の池の水をわざわざ垣生迄溝を流して田畑に引いたものです.船木から水を引いてくると漏水が多く農夫が苦労した。近くに水を求めた。田の枕に井戸を掘り桶で一杯づつかいあげて田に水を満たしたりした.大正十四年高丸に用水池を掘りポンプで(ボンフを電気でまはして)水をかいあげて水田に水をかける様にして段々あちこちに池を掘り今のようになった。用水池で水が十分まかなえるようになって池田の池の水利権を船木に譲った

嫁と姑          昔は同居が多かった.トラブルがかなりあった。人生観も世界観も達う者が一軒の家に住むのだからと言うことを忘れるなといっていた。

夜の過ごし方      テレビ ラヂオの無い時なので夜なべしかなかった
男 藁仕事「なえきり造り 草履造り ネソ造り等
女 針仕事 縫い物 つくろいもの 等が主で時にサラダを
編んだ。(サラダを一反編む二銭間代くれたと言う記録していた人がいた。)

嫁入り         嫁入りの事について何度か書いたが書き落しの事をまとめて次に 新婚旅行は昭和三十年代に入ってから。奥の院さんは縁結びの寺といっていた。お四国さん参りで仲良くなって結婚したものがかなりあったとか。お嫁さんの支度が出来ない貧しい家はトンコピツに平素の衣服等詰め込んで持って行った。昔のタンスには三重ねタンス 三割タンス等があった。蒲団をヒツを担ぐ棒に掛けて嫁入りの行列に参加し事もあった。