○弁財天浜

 江戸時代以前(1600年)の製塩法は揚げ浜式が一般的であった.揚げ浜式というのは海岸の砂地をならし(満潮面の海岸より一段高い所)地盤をつくり砂をならした所へ、海水を汲み揚げて何回か撒き砂が乾くと又海水を撒いて砂に塩分が多く付いた時、それを掻き集めて沼井に入れ海水をかけてかん水を沼井の壺に溜め、それを釜屋で煮詰めて塩をつくった.この方法を普通揚げ浜方法といった。が自然浜という方法もあった。だがこれに工夫改良を加えて入り浜式塩田へと進歩したものと考えられる。垣生の前浜塩田も弁財天浜の塩田も共に入り浜式塩田にするのに自然的条件に恵まれていたところであったといえる。

 先ず弁財天塩田についてみると海岸には東西に長い松林の砂州が続きその砂州の東端と垣生山との間が上荷の船が出入りできる港になっている。塩田が開かれた頃は此の砂州の内側一帯は満潮時には海水が入ってくる芦等の茂った沼地であったらしい。こんなところを潟沼(せきしょう)といっていた。自然浜がひらかれることがおおかった。弁財天浜を開いた時は、整地や砂入れをすると共に海水を取り入れる入り海を整備したことと思う。古書に「また八幡宮の東にて新開を築く。いまに明石堤という」と。なくなった(昭和60年死去)岡彦吉さんが生前垣生の昔を語る会で次のような話をしてくれた。「明石堤は入り海と塩浜との間の土手のことだと思う。こちは(自分の事)18歳の時(大正四年)弁財天浜が廃田になっていたのをお米のとれる田んぼにするため埋立て工事をしたとき人夫にいって働いた。そのときは弁財天浜の西の方は埋立てられていて、中程くらいの所を埋立てるのに、北側の松林の南の砂を運んで入れた。その時松林の中に昔の釜屋跡が二軒あった.西釜屋は六地蔵が今あるあたりにあった。東釜屋は今の軍人墓地の辺りにあったと思う」と。

 弁財天の塩田は廃止になったのは大正四年頃らしいと古老が語ってくれた。

 〇前浜

 前浜の事は西条誌に「南を前浜といい、11軒あり.この前浜のほうの土地は松神子村分へもかかる」とある。この西条誌は天保10年頃(1839)に編集されたもので、伊藤家家譜によると慶長13年(1608)に前浜は三開浜から開きはじめていることになっている。(これは西条誌が編集されるより230年も前のことになる。) この三開辺りの土地は女乙山から西へ延びる本郷を背にして南に面し、東の海は垣生山に依って防波堤の役目をしてじかに海の荒波を受けることがなく、南の方は江の口辺りまで一帯に遠浅で芦等の茂る沼沢のようであったろうと想像される。(なお国領川が垣生と黒鳥の間に流れ込んで居た時があると言う人がいる)

 本郷に続いて浜中・三開浜・前浜というように順次垣生は東南へと開かれていったものと思われる。芦原をならし浜敷を造り、山端に添って入り海を堀り(入り川といってもよい)土手を築き塩田を造ったものと思われ、土手のところどころに樋門を造り満ち潮の時に海水を入れるようにした。

昭和の始頃迄入り海を上荷の船が行き来した。南は唐樋・中は今の消防ポンプの貯蔵庫のある所迄・北は垣生四丁目4の16辺りまで船が行き来したのでした。その上荷の船は釜屋の燃料や塩田よりできた塩を積み出したりしたものです。後には瓦土等も運んでいました。釜屋は地場(砂を撒いて濃い塩水を造る所)より一段高い(1m以上)所に建てられていて、塩田で造ったかん水を一旦大坪(だいつぼ)に溜め、それを釜に移して柴等の燃料でたいて塩をつくりました。(燃料も柴より石炭になり釜も築き釜から鉄釜に変わり能率がよくなった)前浜には11軒の釜屋があり、その名前と位置を今は亡き印南菊太郎さん(昭和61年死去)が教えてくれました。それから新田釜(垣生三丁目1あたり)、江端釜(垣生三丁目4あたり)、二軒釜(元二軒釜屋があった、垣生三丁目1と4の境あたり)、三軒釜屋(二軒釜屋と同じ三軒釜屋があったが後一軒になっていた垣生三丁目1234の境あたり)、勘左衛門釜(勘念釜とも呼んでいた、垣生四丁目1あたり)樋のロ釜(垣生三丁目2あたり)、庄兵衛釜(垣生三丁目1、2の境あたり)、廃田(昭和五年)迄このように呼ばれていました。

 このほかに三開浜にも伊藤家家譜にある明石釜屋があった(垣生四丁目2あたりにあったらしい)釜屋屋敷と呼ぶ小高い土地が垣生中の運動場が拡張されるまで残っていた。垣生塩として評判が良かった垣生の塩由も江戸時代の中頃ろ過ぎより質量共に衰えを見せかけたようです.其の事について次のような古文書が残っています。

 宝暦九年(1759)12月

   垣生・松神子両村浜師総代口上書

 垣生村・松神子村入組塩浜の儀、近年塩付き悪敷少々あて、荒浜も御座候処此節は別けて塩付悪敷品との様子にて、荒申す可き哉と歎かわ敷く存じ奉候。右浜は浜主より外大勢の渡世にも相成り居り申す場所に付き(中略)老人又は幼少のもの迄も、向々に相応の業を相務め仕り、その上、灰又は越し柄等は田畑え取入れ候に付き、立ち毛(農作物)も宜しく生いたち村の潤いに相成り居り申す様の処、自今荒れ浜に罷り成り候ては村方大勢迷惑至極の仕儀に御座候(下略)(田の上小野家文書)

 此れに依って宝暦年間(1750)既に荒れ浜の兆候が見え始ていたらしい、此の上荒れ浜が増しては浜主ばかりでなく、村民の多くが難儀するので、藩庁から援助くださって荒れ浜にならないようお願いするとしています.

 宝暦9年から約50年後の文化11年(1814)同じ小野家の文書の中に次の様な文があります.

 「此の塩田に引き入れている海水に、潅がい用水の池田の池の余水、久貢新田、又野川筋大石樋共、樋数四本よりの吐出水が入り、満潮の度に水と潮とをたたえあい、大雨のみぎりには日和になっても10日前後も入り川の塩分が薄くなり、宝暦・安永期の四分の一に減っている.(文化11年前浜・浜仕成人衆「奉願上口上」」とあります。

 此こに示されている池田の池の余水というのは、明暦元年(1655)一柳直興の開発した船木の池田の池の水のことで、川東四ケ村(郷・松神子・宇高・垣生) の用水で垣生は其の末流です.余水は前浜の南側に流入していました。久貢新田は宝暦9年(1759)104町歩が干拓されて、其の時又野川が海え伸び入江の近くに注ぐ様になり、東沖の海水が薄められる様になった。前浜が開かれた頃(1608)は池田の池の余水も無く、また又野川の流入も影響を受けなかったのが、これらの影響で質・量共に衰退の途を辿り、其の上近代化に遅れとうとう昭和5年(1930)三百年余りの歴史の幕を閉じました。

 ○垣生塩田の特徴

 垣生塩田の特徴を幾つか挙げると

一 恵まれた自然条件によって、入り浜塩田として早く開発された。

二 普通の入り浜塩田より堤防を造るのに苦労が少なかった.(自然条件の1つともいえるが)

三 垣生塩田は開発の資金も少なくてすみ、以後の維持管理についても容易であった

四 垣生塩田は他に比べて小規模経営であった。

五 垣生塩田の経営は「ぬい」を単位としていて「ぬい」四つぐらいをもって塩造りをするのが普通であった。

  その事について次の文書があります。

文政10年亥10月(1827)

    垣生分、松神子塩浜売払帳  松神子酒場

    松神子分 本 吉兵衛浜

 一本縫三ツ弐分 此縫三ツ有 本郷 孫兵衛仕成

         三軒釜屋

    落札代銭壱貫三百三拾弐匁  松神子 宇七郎

    垣生分 山 久四郎浜

 一本縫壱ツ五分 此縫二ツ  山 五助仕成

    松神子分右同断

 一壱ツ七分五里 此縫二ツ有  同人

    〆縫四ツ有   江端釜屋

  落札代銭壱貫六百六拾六匁六分  垣生村  弥兵衛

以下八筆略と

 前の一筆は「ぬい」三つ、落札して浜主(地主)となったのは松神子の宇七郎で、仕成り人(小作)は本郷の孫兵衛であり、釜屋は三軒釜屋を使用していたらしいです。この浜は本郷吉兵衛浜と呼ばれていたことがあったと言われています.

 文書を一筆毎に「ぬい」の数を列記しますと。四つ、四つ、三つ、四つ三歩、・・・・となります。これや古老の話などで経営の規模は「ぬい」四つ前後の小規模経営で家内労働の兼業経営ともいえる特性を持っていたといえる。仕成人(小作)は大概農業をやっていてどちらが本業か分からないといってよいくらいでした.農業では現金がはいることが少なく塩田での収入がどれ程垣生の住人の生活の足しになっていたかということを考えると、垣生の人の気質にも塩田が影響を及ぼしていたといえると思う。

垣生の養蚕

 垣生の養蚕は明治の末頃よりぼつぼつ始めた。蚕の種は沢津の小野寅吉さんの家でやっていた。暫くして垣生では佐々木竹次郎さんが種屋を始た。垣生山が、桑の栽培に適していたのか急速に垣生山が桑畑で覆われた。桑畑の畦巾はだいたい2メートル桑と桑との間隔は70センチ位、一株の桑より七八本幹をださした。桑の木の高さは2メートル位あったのが多かった。蚕を飼う時気をつけたのは、丈夫な蚕に育てることであった。蚕は防虫剤をかがすといっぺんに駄目になるので箪笥も開けないようにしたとか。(箪笥には防虫剤を入れているので)煙草も蚕の側ですわないようにした。

蚕を飼う時温度の低い時分暖房したが、今考えると不完全なもので小火があったとか。(暖房は始め木炭を使用していた。)桑は春こが終ると根元から切り込んだ、夏こ迄に桑の木が2メートル位に伸びて夏この養蚕に充分な桑の葉がとれた。桑に早生・ろそ・ねずみがえし等の種類があった。養蚕について普及員が来て指導していたことがあった。

種子紙に生みつけられた蚕の卵がかえって(蚕の卵は普通紙の上直径四センチ位の円形に生みつけられている)毛のような幼虫を(毛子といった)小さく刻んだ桑の葉の上に移してやった、けれど蚕の幼虫が種紙からなかなか落ちないので烏の羽根で造ったほうきの様なもので掃く様にして桑の上に落した。ほうきで掃く様にしたので普通掃き立てといった。蚕に桑をあたえ糞と桑の食い残しをのける世話をてまめにしてやって四回の脱皮をさせて成長させた。四回の脱皮を終えた蚕を五れいの蚕といった。蚕も五れいになると食欲が旺盛で桑を、沢山食べるので世話も大変で目が廻る程多忙であった。

 五れいになって蚕が充分桑を食べ成長し頭が透きかけると繭をつくるようになるので繭を造るまぶしに入れてやると蚕が繭を造った。(まぶしは始め藁を輪の様に括ったものであった、次に藁を折機に掛けて山型に折り、それをえびらに並べそれに繭を造らせた、昭和になって藤の様なものでなんかいも使えるものに変わった。)繭が充分硬く成るとそれを丁寧に集めて繭入れ篭に入れ取引所に持って行って売った。

 蚕が掃き立て(卵からかえって)てから24日で繭になった。