垣生のこと

 昔、河野氏がこの辺りを治めていた頃、垣生は河野の家臣、垣生某の知行所であったとか。それより村名を垣生といったと言い伝えられている。けれども垣は、埴のじの誤りでないかとも言われている、埴ははに土である。垣生の二字で、はにうとも読み、それを濁ってはぶと読み、後又誤って垣生とかいたらしい。慶安元年(1648)伊予の国知行高郷村数帳、垣生村日損所とあります寛文六年(1666)新居郡の内、家数77、人数398人(寛永の頃まで戸数十四・五戸、庄屋を置ずと古文に残っている。)寛文十年、戸数九十一軒・天保十三年(1842)戸数468軒・人口2620人・田畑石高576石・舟36そう。塩田、前浜(塩浜九区・塩釜九個)弁財天、製塩業九軒運上(四斗入り、375俵)

 明治初年.戸数五六四戸、人ロ2876人、舟200そう(内五〇石以上三せき)田五七町余、畠六五町余、塩田八町余(塩 三四六六石)等古記録に記されている。之れ等から昔の貧しかった垣生が偲ばれる。

 文化三年(1806)垣生に大火があって家屋の延焼凡そ二百軒。大変な災害でした。此の時六郎右衛門が救済に努力し、又村内の小入用銭を、無利子で貸したりした。その他数々の善行があった。(御祢誉何度かあった。)又孝子ということで、助左衛門、儀助などの名が伝わっています。(西条史より)

垣生に関係のある社寺

☆八旛神社〔特別な字を使っているので無い字はひらかなで書きます〕

○ 御祭神

   応神天皇・気長足尊・比売大神

○ 御由緒

   八旛神社は石清水八幡宮の新居郡井於の郷の別宮で創立年代は詳し<わからないが、由緒が非常に古く、河野氏が崇敬した。源頼朝は八幡神社別当円朝に命じ、平家追討の祈祷をさせた。そうして「獅子王の宝剣」を寄進した。丼於郷は石清水八幡宮の御神領となって、禁裡仙洞御所を始め奉り、関東将軍家の御祈祷所にあてられた。武門・武将の崇敬篤く神運隆盛を極めたが、豊臣秀吉の四国征伐によって毛利の軍勢に社殿・宝物・古文書等、ことごとく焼かれてしまった。その後神託によって、毛利家は当社を長州萩城下に勧請して「伊予八幡」と称し、崇敬した。社殿再興後、松山城主加藤嘉明、宝剣を寄進し代々崇敬した。文久三年(1863)沢宜嘉卿、王政復古を祈願して、自筆の絵馬を奉納した。

○ 境内に祭つている神社

  宇賀神社  倉稲魂令

  字高神社  素さ鳴尊外三柱の神

  天満神社  菅原道真

  恵美須神社 大国主令・事代主神・金比羅神

八旛さまは始め、、神仏混こうであった、赤池は仏にまつる水を汲んだ池だと、伝えられている。

○ 八旛さまのいろいろ

 宝剣は垣生太郎という人が持ってきた。それより垣生といったとか。宝剣は定秀と言う九州の人、が造った。平安末期の人と言われている。関係のある地名 馬場・額・のぼり田・正面など。海中の鳥居。大正四年、石風呂の沖でみつかる、毛利家より寄進の途中時化の為捨てて逃げ帰ったのではないかといはれている、今砂の中に埋まって、位置も分らなくなってしまった。

☆法泉寺(女乙山)

○ 御本尊 弥ろく菩薩 (大日如来)

○ 御由緒

 法泉寺は延長(932-1956)年間高橋光頼が開創したと伝えられている。四天王の随一、毘沙門天を本尊とした。脊の乙女山には竜王女乙明神を安置し、北方の弁財の浜には弁財天をまつる霊刹。寺の西北五町に赤池という所があり、この近くの地に聖徳太子をまつる、太子堂がある。慶長元年近藤助左衛門が田の上に来て、神楢原権現小社と、太子堂寂光庵を建立した。天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国攻めの時、当時の地頭職、富留の城主大宅種長、秀吉軍と戦って遂に敗れ一門が滅亡す。種長の嫡子幼く家臣に護られ難を避けて乱治まり宇高下原に住んだ。後 高橋左右衛門大夫となのる。その子光義宇高大庄屋となった。其の子光近法泉寺の大壇主となり、寺門の興隆をはかった。寛永(1624-1643)の頃法泉寺 照蓮師村人と勧進して太子堂を再建した。照蓮師、八幡宮の遷宮に導師を勤めた。光近の子、光房寛文の始頃(1661)垣生に移り、垣生の庄屋を勤めた。其の子孫は信心殊に篤く明治に至るまで代々大檀主として、寺の興隆に尽した。

○ 法泉寺あれこれ。

 宇高、田之上に檀家が多い。大般若経をもっている。昔高野講をやっている。昔毘沙門くじをやっていた。明治の始村役場が置かれていたことがある。今御本尊が大日如来だ。山端の大火の時、銀五両だして救済した。(文化三年十月二十九日) 女乙の神は弁天さんの妻の姉と言う言い伝えがある。江戸時代の終り頃、寺子屋をしていた。法泉寺の院主さんは代々易学に秀で、村人の名付け親になることが多かった。本道の西側で、大正十五年(1926)迄、お花、お茶を教えていた。おねはんは昭和二十六年より法泉寺でやるようになった。それまでは円福寺でやっていた。

☆其の他小社寺

○ 金毘羅宮

   山端にあり。(神様を八幡神社に遷宮している)宮島様も、祭っていた。今は宮島様の祭りの時、八幡さまより遷宮して来て、お祭りをしている。金毘羅さんの山を園部さんの先祖が、寄進したらしい。

○ 三味所

   海岸近くに在ったのを、今の所に移転した。自治会館ができるまで集会所にしていた。先年建替え納骨所として整備された。

○ 若宮さま

   浜中にあり、伊藤氏の先祖を祭っている。付近の人のお参りもある。旧お正月祭りをしている。
        

○ お地蔵さん

   小路にあり。部落の入り口にあって人々に幸せを与え信仰する人多い。

○ 小山の観音さま

   小山にあって、三十三体の観音の石仏が山に添って祭っている。

○ 水門のお大師さま(泉大師)

   水門、松神子にあって元水門の護り仏、ともいわれ泉があり大きい樫の木があったが火事で焼けてしまった。 

○ 石鎚神社

   北沖の、漁協の近くにあり。海の神として、崇敬あつい。

○ お薬師さん(八旛さまの西)

   源頼義の建立らしい。お薬師さんと呼んで、信仰する人が多い。 

○ お女乙さん(法泉寺の裏山)

   女乙明神・三宝荒神・若宮権現をまつっている。神功皇后の三韓征伐についての伝説がある。お祭りに相撲をとったりして、賑わったが今はすべてなくなった。 

○ お太子さん(太子堂) 

  こ本尊は、聖徳太子

   町部落にあって、起源がはっきりしない。太子堂と観音堂がある。境内に石の錨といわれる石があり、近くに太子の足形石があるが、今なかなか見ることができない。(地盤沈下によるのか)垣生の人達が、信仰した神仏の大様を書きました。

垣生の教育

元公民館と保育園の在る所に、小学校があった(明治36年1903新築)。その当時敷地が低く台風の度に、学校が、水に漬かった。そこで学校の移転の話が持ち上がった。いろいろ協議して、西烏端のお宮の馬場の近くに決定した。それに対して山端の人達が、西烏端に学校が移れば昼弁当がいる等と言って猛烈に反対した。そして現在地に移った。(移ってみたが、台風の時等やはり水がよくついたが現鉄筋の時、地上げして今の高さになった。)元の公民館の所に学校が建築される迄、小学校が西三木の前あたりにあった当時四学年迄で、小さな学校であったが児童は200人近くいた。校長先生も受け持ちがあった。4学級だったので4人の先生で教えていた。女の先生が1人いた。が詳しい事は分からない。元の公民館の所にあった、小学校は、教室は9つあった。校舎、が二棟あってT字型に建っていた。教室の南側は紙障子で、雨が降ると雨戸を閉めて、勉強した。(薄暗い中で)授業の合図は、版木でした。(版木は縦五十センチメートル横八十センチメートル厚さ二十センチメートル位の堅い木を、吊って木槌で叩いて合図した。)明治四十三(1908)より義務教育が六ヶ年になった。高等科が(二力年)置かれたが高等科に進む者は授業料がいった。高等科に始め進学者が少なかった。(それまで東新高、遂洋高,等があったが、進学した者が少なかった。)明治の終り頃に、どんな学用品を使っていたかを話してくれた。まずノートは殆ど使はず、石盤と、石筆を使って文字、計算等の練習をした。鉛筆は貴重で、大事に使った。ノートに書くのは今のテストの場合と同じくらいの気持ちであったらしい。習字が度々あったが、紙が貴重品だったので、何度も何度も練習して、紙が真っ黒に成るまで練習した。(そんな紙を綴じて草紙といっていた。)絵を書くのに使う色は、始め色鉛筆で淡く彩色した。クレオンが使はれたのは大正十年頃からで、絵の具(水彩)を使ったのは大正の末頃からでした。教科書は、各自自分で買った。教科書が買えない人もあって譲ってもらって古いのを使った者も組に何人かいた。エンピツが自由に使えたのは、大正になってからと言われている。