☆垣生の人口の変遷

○ 江戸時代の末 (1830年)ごろ 2162人   468戸

○ 明治四二年  1909年    3893人   786戸

○ 大正二年   1913年    4068人   481戸

○ 大正一〇年  1921年    4472人   (本籍)

          現住     2131人   442戸

○ 昭和六年   1931年    2289人   474戸

○ 昭和一〇年  1935年    2685人   503戸

○ 昭和二八年  1953年    3928人   775戸

          此の年新居浜市に合併

○ 昭和五五年  1980年    4641人   1380戸

          (此の年に垣生の昔を語る会を始めた。)

○ 昭和六一年  1986年    4212人   1340戸

人口の変遷は或る人がメモしていたの基にした。産業の発展と共に人口がふえたことがわかる。

☆垣生の役場

明治維新後行政がだんだん整って垣生にも戸長(今でいうと村長の役目をしていたらしい)が決められた。戸長の家が役場の機能をしていたらしい。それを役場とよぶと垣生の役場の始まりは四丁目四番あたりにあったらしい。(戸長がはっきりしない時、一時法泉寺の一室を借りて役場らしい仕事をしたことがあったという。)役場は独立するようになり、四丁目八番二四あたりに移り、それが四丁目九番あたりに移転しそこから今の垣生小学校の体育館の南あたり(一丁目五番四〇あたり)に新築(二階モルタル仕上げのモダンな建物)し移転新居浜市に合併する迄垣生の行政をやっていた。合併して後昭和三職員室などに使って、垣生が小が鉄筋で改築した時取り壊された。小学校に始めて校長室が出来る。

☆垣生の村長

園部千代吉 岡部専吉 伊藤岩之丞 永易三千房 園部無事平 佐々木慶助 岡部浪三郎 佐々木定蔵 三木通直 三浦幾次 園部禎蔵 藤田平四郎 岡部員雄 園部みち (みちの字がありませんので平がなで書きました)

垣生の年中行事

○ 正月

      三日  まで休んだ お宮参りに行った

    四日  朝、福明かしの行事をした。

    七日  七草粥を食べて健康を祈った

    十一日 仕事始め。
    百姓の祭り(田にすすきの穂を立てて豊年を祈った。)


      十五日 お祭り日 お供えをおろした。

             とうどうをはやした。(どうどうをはやした
             火でお餅を焼いて食べるとその年健やかな
             といった)(とうどうをはやしたとき唱えた
             言葉・・・・とうどうの鳥も、日本の鳥も
             飛び渡らん間に、なずな、七草カチカチと)

十六日  仏日 お墓参りをした、真宗の人は三昧所
                  に参った。

    二十四日 送り正月 農作業を休んだ。

         (正月の雑煮の具として、水菜、里芋、等を
              いれた)

             (三日に法泉で毘沙門さんのくじを売った。
             一等は米一俵であったが一等に当たった人
             は大概寺に寄付した。)
○ 二月 
     一日  お朔として、此の日厄年の人が厄除け参りをし
           、お宮に行っておはらいをしてもらった。

   十五日 おねはんでお寺にお参りにいった、。(戦前は新須賀の円福寺でしたが戟後各寺でやるようになった。)常楽ともいって豆烈りをした。(餅花・かんころ・空豆など煎った。)

○ 三月

    三日  雛節句 あられを煎って雛に供えた。

    四日  雛嵐をした。

    十日  金毘羅さんの祭り。村相撲をした。

    十七日 小山の観音さまの祭り。ここでも村相撲をし
            た。共に戦後止んだ。

    二十日 過ぎ明教寺で法要があって、お説教があった

〇 四月

    八日 潅仏会(花祭りともいった。甘茶を貰いに法泉寺にいった。(甘茶は水薬の空瓶を持って貰いに行った)

 上旬 招魂祭をした。忠魂碑は垣生山の裏の海の中に在った石を、タンボまで運び、暫く置いてあったのをお宮に建てるつむりで本郷まで運び昼食のため小憩している時、八幡さんは高津の土地だ、そこに忠魂碑をを建てるのはどうかと言う意見が出て建てる場所が急に法泉寺にかわった(大正9年)後女乙山に移し、昭和六十一年大修繕した。

○ 五月

    五日 端午の節句。鰹のぼりを立てて男の子の健康を
          願った。

       銭湯では昌蒲湯をたててくれた。ちまき、柴餅
          を造って食べた。

○ 六月

    一日  石鎚祭り

      十五日 夏越祭り(輪越祭りともいった)般若さん入れ
            もした。(青年団が中心になって) この月村
            中一斉に大掃除をした。(掃除の出来を衛生
            組員が点検にきた。時には巡査が点検にき
            たこともあった。この月の適当な日に足洗
            いをした。足洗いは役場から触れてきた。

○ 七月

      七日 七夕節句 六日の晩に七夕飾りをした。短冊に
           願い事書いて吊るした。短冊のは墨で書いた
           が、墨の水は笹の露か蓮の露で摩るようにし
           た。きゅうり・ふろ・西瓜・団子・あられ等
           供えて幸福を祈った。

    十四日-十六日 お盆の行事をした。仏を祭り、盆踊り
                 もした。
      十七日 宮島さんのお祭りを今の長岩橋の近所でした
            。此の月に虫送りの行事もした。(大三島の
            火等貰って来て、その火を松明に移したのを
            田の畦で振って虫がつかないように祈った。

○ ハ月

    明治時代はこの月に秋祭りをした(旧暦の八月のこと)

○ 九月

    十六日 女乙山でお祭りをし、相撲をした。

○ 十月

    十日  金毘羅祭りをした。村相撲をとった。 

〇 十一月

亥の日 亥の子の行事をした。子供が葉ですぼを造って何人か組を造って戸毎に亥の子歌を歌い乍らついて廻った。亥の子 亥の子 亥の子餅や橦かんかの、撞き手なけれ。山ぢの麦も。林も麦も よううれしぼれ。等の歌を歌った。他の地での歌に 一で俵を踏まえて、二でにっこり・・・の歌は垣生ではきかなかったとか。亥の子に廻ると亥の子菓子を呉れた。昭和になって学校でとめて、亥のこを橦いて廻るのが止んだ。

   八日 ふいご祭りを鍛冶屋がやった。ふいご祭りには親しい人を招待して宴会をした、(鍛冶屋は、山端に三軒、本郷に一軒あった。)鍛冶屋は主に農器具を製造修理した。鍛冶屋の神として金星こ・稲荷の神を祭っていた。

○ 十二月

二十五日 冬至、この日かぼちゃを食べた。又此の日ゆず湯に入ると風邪にかからないといった。

真言宗の家では巳の日・午の日の仏事をした。真宗の家では家々でおとりこしの仏事をした。年末に大掃除をした。年末に借金の清算をした。年末にお餅を撞いた。(二十九日は餅撞きを避けた)おつごもにそばを食べた。除夜 年末最後の晩。夜半十二時前後から各神社で太鼓を叩き、各寺院では百八つの鐘を衝いた此れを除夜の鐘という。

○ 元日

     初詣にお宮、お寺に行った。初風呂(朝風呂)に入ってすがすがしい気持ちになった。神仏を拝んだ。お雑煮を戴き、煮豆、数の子、田作(ごまめ)等めでたい物、縁起の良い物を戴いた。若水をも汲んで炊事した。

   二日 書初めをし、初夢をみて夢占いをのした。

垣生に伝わっているお話

○ 苫立てとも次郎

    狸はよく物事を知っていた。喜兵衛という人が試しに行なった。三夜目に大きなもの現れた、恐ろしくなって、玉崎明神に頼む。それを嘘だといって藤太郎おっさんが、試しにいく。とうどう小屋に火をつけて焼き殺すその大きなものを其の時竹が弾いて、鉄砲を撃つようであったと。                           詳細は、昔話で紹介しています。                                                                  

○ 乙女山の白佗

    或る人が、乙女さんに悪戯しにいった、椋の木の少し山てに、男竹の生えていたところに、其の竹を巻<様に大きな白蛇が寝ていた。友達を呼んで再びいくともういなかった.其の後、誰れかが、椋の実を採りにいって、足滑らし木より落ち怪我する。痛み止まず、拝んでもらうと蛇の祟りといわれた。拝んでもらって祟たりを除いてもらった、すると痛みが治った。

 詳細は、昔話で紹介しています。

○ 猪の谷の大蛇 

   いつの頃からか、大蛇がいた。或台風の時その蛇が海を泳いで、大島の方へ渡っていた。其の蛇を垣生の人が見た年は、垣生は豊年だといっていた。

 詳細は、昔話で紹介しています。

○ 橋の下の小豆洗い   

   米屋の近所の橋の下に、雨が降ると狸でも居るのか、小豆を洗う様な音がした。といって子供らは恐れていた。


 ○ 狸の祟り              ・   ′

  原因不明の病気などにかかると、狸の祟りだと言って、狸の好きな物をそなえて、おことわりをした。すると病気が治った.とか。

 ○ 大魚

     明治の中頃、垣生と黒鳥の間で、漁船を持ち上げられた、恐くて捕っていた魚を棄てて逃げ帰った。いきた心地がしなかったとか。

 詳細は、昔話で紹介しています。

 ○ 捨て石 

捨て石五衡門という人が、埋立てをしようと捨て石をしたが(垣生と黒島の間に)成功しなかった。
 

 ○ 江端の蟹拾い

  江端に狸がいて、雨の晩など蟹がよく取られた。で人がおそれたものであったとか。

 〇 天狗岩の七人みさき  

     夜遅く、天狗岩の側を通ると化けもの(七人みさき)が出る。七人まで水の中に引き入れてその人が死ぬと成仏すると言っていた。

 詳細は、昔話で紹介しています。

 ○ 山の神の大木

      垣生山に大木があつて、山の神の大木といって、お参りが多かったが、今度戦争でなくなってしまった。


 ○ 金比羅さんの大松

      金比羅さんに、大松があって、枝が今の山端の自治会館まで伸びていた。文化三年山端の大火で焼けてしまった。(一週間も燃えたと古老が言っていた。何しているかと尋ねると気づついて止めたとか)

 詳細は、昔話で紹介しています。

              
 ○ 久貢山の大猫              

    久貢山に大猫がけて、海を渡って(今のように地続きでなかった)一休みしていると、弁当をよく取られた.   
 ○ お上り場

    八幡さまの、御神体が流れ着いたところ.(垣生山の北にある)

 ○ 蛇の話     

    木の根と思って、腰掛けそれが動いて、ぴっくりした.町の山の神の側で、葉と思って取ろうとすると蛇だった。という語が残っている

 ○ 垣生の風習

   産後にチヌを食べさせる(主に姑が食べさせた)。 秋茄を、嫁に食わすな。コチの頭を嫁にやれ。(コチの頭に肉が多い)。 娘さんの所に青年が夜、集団で遊びに行った。小学校が終わると、青年団に入った.青年団では般若入れ、道直し、太鼓台の運営。女が嫁入りすると眉毛を落としおはぐろをつけたとか。