垣生の民謡

眉毛落として、まだ間もないに 髪は崩され、櫛はおられそれでも貴方の、気に入らなけりやふつなと蹴るなと、叩きなと どうせ任した、私の身体とかく貴方の、カンシヤクは そとでもでるかと、あんじます ドンドン

欠伸しながら、鏡に向い おやをうらむじゃ、ないけれど ようまあ不細工に、生んでくれたもの 取分け気になる、この低い鼻 これじゃ惚れても、無いものと 言うて嘆くも、無理はない ドンン

飽きも飽かれも、せぬその中を 親の手前が、ある故に 一度は切れます、或義理立てて 長い別れは、せぬ程に 必ず短気を、出すじゃない ドンドン

 ○ 太鼓を担ぐとき歌った歌

☆ヤツトセー節


   工-沖の暗いのに、白帆が見える、ヤツトセー、ヤツトセー
     あれは紀の国、さんま蜜柑船、ヤツトセ一、ヤツトセー  
   ○エ-沖の波みりや、山より高い、ヤツトセ一、ヤツトセー
     娘やるまい、広島え、ヤツトセー、ヤツトセー

   ○エ-咲いた桜に、誰駒繋ぐ、ヤツトセ一、ヤツトセー
     駒が勇めば花が散る、ヤツトセー、ヤツトセー

   ○エー会って嬉しや、別れが辛い、ヤツトセー、ヤツトセー
     別れともなば、会わないい、ヤツトセー、ヤツトセー

                           、以下略します。

☆垣生の人が語ってくれた、軍隊の思いで。

〇 歩兵になった人が、入隊した隊

   入隊した所が次の様に変わった.松山⇒丸亀⇒松山⇒善通寺⇒福山⇒松山⇒徳島⇒松山と言う様に度々変わった歩兵以外は、善通寺に入隊した。昔の軍隊は、訓練が厳しかった(残酷であったとさえ言う人がいた.)違反者が(覚えが悪い、走るのが遅い等)がでると、次の様ないじめをしたとか。鴬の綱渡・玄海灘・蝉の鳴き声・あおぐ・蚊の山・しようきん兵 太閤気合い入れなどがあつた。

○ 或年寄りが大正の始めの、軍隊生活の一部を、のぞき節
      で歌って披露してくれた。

   今年は21検査年、わたしの身体が良いからか。村長の尽力足りないか、歩兵甲種に合格し。月日のたつのは早いもの、六七月は時の間に。十と二月になるなれば、音に名高い善通寺。歩兵隊にと入隊し、身には軍服着けられて。軍人姿はよけれども、人の使いや掃き掃除。各個教練しこまれて、一期や二期は終るなら。明日は衛兵寝ずの番、部隊とうれば整列し。士官はとうれば敬礼し、夜の夜中も独り立つ。人の往来見て暮らす、帰れば十日の俸給も。五十二銭のその中で、中で十銭貯金すりや。四十二銭の鷲掴み、七日に一度の外出も.週番士宮の命令で、服装検査に整列し。そこで士官のご注意が、大酒飲むな乱暴すな。服装乱すな遅刻すな、そこでご注意終るなら。営門さして駆け足で、営兵司令に右手挙げ。営門歩哨に手帳見せ、片原町を後に見て。差していくのは停車場、上り下りの汽車を待ち。琴平行きの汽車に乗る、琴平町では富士見町.富士見町では大阪楼、行けば敷島飛んで出て。

兵隊さんか懐かしや、よく来てくれたと手を掘り。二階さしてと急がれる、登り詰めたは四畳半。二つ枕に三つ布団、六枚びようぶを立て並べ.うんさやん苔の掛声で、ひと汗かいて寝座話。そこで敷島申すには、私は恋の務めの身.貴方はお上(かみ)に捧げし身、早く帰らにや遅刻する.言われて驚く胸の内、汽車に乗ろうに金は無し.駆け足どうしで帰りくる、帰り歩哨に尋ねたら.五分遅れた遅刻した、歩哨は司令に報告し.司令は連隊に報告し、明日の回報に載せられて.懲罰令で重営倉、夏は来たとて蚊帳はなし.冬は来たとて夜具は無し、三度の食事も塩の菜.七日に一度の入浴も、衛兵司令の着剣で.これ程つらい事はない、鳥に例えて言うなれば.八千八声の時鳥、血を吐<よりもまだ辛い・芝居にたとえて言うなれば、安達が原の三段目。此の垣一重は鉄格子、早く満期を待ちかねる。と

☆兵隊あれこれ

男子が二十歳になると徴兵検査を受け、心身の兵役に耐えるものが、合格となり、軍隊に入隊した.入隊を心では嫌う者も居たが、表面は勇んで隊に入隊した。入隊の見送りは明治時代ば質素であった。今度の戦争も始めは、盛大であった、が昭和十八年頃から軍の命令で私服でこっそり入隊するようになった。

○ 村葬の事 今度の戦争迄しなかったらしい。

  千人針

 今度の戦争からやりかけた.千人の御願い(武運長久)を込めて一針一針縫って造った。特に寅年生まれた人(女)は年の数だけさすことができた.千人針に五銭をぬいこんだ。(死線を越える意味)又なた豆も縫込むこともあった。又寅年の女の陰毛を縫込むと、特にご利益があるいったものだった.(なた豆は、昔はおおく作っていたが今は作らなくなった。)

☆結婚あれこれ

昔垣生では青年が、娘さんのところに、遊びにいった(夜2・3人で)娘さんの家の者も嫌がりもせず迎え、娘さんも2・3人集まって裁縫などし乍ら、青年と世間話をして時を過ごした。其の内に好き好かれて、結ばれる事もかなりあったそうです。(従って、村内同士の結婚があった)遊びに行った青年の鉢合せもあったとか。青年と娘さんと好きあって居ても色々の事情で結婚できない時、駆落ちをさせた。(駆落ちには、近所の人たちが協力したこともあった)又お寺参りのとき帰りに仲良くなることもあり。お四国参りに行って仲良くなることもあった。駆落ちの中には親が知っていたのもかなりあったとか。

話が決まって、仲人をきめ(仲人に頼まれ仲人が多かった。)仲人が吉日を選んで結納を持っていった。(結納金は大正6年で十円位であった)結婚の時花嫁が角隠しをかぶったのは、女が我を隠す意味だといっていたとか。披露宴は昭和四十年頃まで大概自宅でした。式も自宅でした。時間帯は日が暮れた時から始まった。式を見ようとして、障子に唾で穴をあけて見たものだった。

 話を少し前に戻して、婿入りを嫁入りの日の、昼間にいった。婿入りにはかいぞえとして、親類の年上の者が共に行った。其の時結納品を持って行ったこともあった。花嫁は婿の家に着くと、座敷口より上がった。花嫁は上座につき時々座布団を二枚敷いて座った。そして三々九度の式をした。盃が済むと家の神仏を拝んだ。披露宴は、花婿の家でし、其の時人足も交えて夜が明けるまで飲んだ。(人足とは花嫁の道具を担いで運んだ人。)花嫁の道具も質素なものだった、箪笥に布団を一流れ掛けたものであった。他村からきた花嫁の為、立宿が用意された。花嫁が化粧直しをし、休憩した。婚礼の翌日、花嫁が歩き初めをした。婚礼の時ありつけが一緒に行った。婚礼の三日目に花嫁の里より、ひやぬくめを持ってきた。(ひやぬくめに多く赤飯を持ってきた)婿の家ではひやぬくめを近所に配った。花嫁が七日目位に手土産を持って里帰りをした。花婿もともにいった。多く一晩泊まって帰った。結婚して、入籍したのは子供が生まれてしたのが、多かった。

☆垣生の人の一生

○ お誕生まで

   子供は特別な時以外は、自分の家で生まれた。それも多く奥の部屋で生まれた。(奥の畳を上げて子供を生んだ。)産気ずくと産婆さんが総てをしてくれた。ずっと昔は、産婆さんが居らず、取り上げ婆あさんが総てをやってくれたという。取り上げ婆あさんは、部落に一人はいた。産婆さんが垣生に来たのは昭和十年代であった。無事に子供が、生まれると産湯をつかはした、その湯をお日さまにあてたらいけないと言って、産室の床の下に流した。後産は北沖に収めるところがあって、そこに収めた。(奥の床の下へ産湯の湯を流すのは今考えると非衛生的である)色々非衛生な処があったのか、乳幼児の死亡が多かった。元気な産婦は、出産の日迄多く働いた。お産は一般に軽かった。子供が生れた日から、母親の側に寝かされ、お乳もすぐ飲まされた、離乳が一般に遅く小学校に行くようになって止めさされた子もいたとか。子供が生まれて初誕生迄元気に育ちますようにと次のような行事をした。七日めに名をつけた。入籍は遅れることもあった。食い始め。ごはん・かながしら・おついを口に入れる真似をした。(食い外しの無いように)食い始めの時、着物に小猿をつけて着せた。子供の頭にびんちょを置いたものだ。お祭りに氏見世参りをし、又ほうそうにかからないようにと、ほうそう神にいのった。其の時小さなお餅をほうそう神に供えた。

   初お誕生には一升餅を撞いて、背中に負わし歩かしたものだった。子供が夜泣きする癖がつくと、四つ辻にきゆうりを深夜誰にも見られないように埋めてお願いした。すると妙に夜泣きが直ったとか。子供が病弱の時には、知人の家の元気な子の着物を分けて貰って着せたりした。又時には其の子を知人の門口に捨てる真似をして、そこの家の人に拾って貰って其の子を貰う格好をして育てたりもした。(昔子供の通称に捨丸などの名があるのは、その名残だとか)

   赤ちやんのよだれが多い時には、かたつむりの黒焼きを飲ました。又お地蔵さんに新しい、よだれ掛けを造って掛けお祈りをした。子供が生まれて、三日目に便所に連れて行って大小便をさす真似をすると早くおしめが取れるといった。

○ 誕生日以後

昔は七五三のお参りは、あまりしなかった。小学校に入学式の後八幡さまに先生に連れられてお参りに行き、おさがりにおまんじゅうを貰って帰った。小学校を卒業すると、男の子は青年団、女の子は処女会に入った。各先輩から色々なことを習った。適齢期に成ると良い相手を見附て、結婚した。女が三十三、男が四十二になると、除厄の行事をした。先ずお餅を撞き、お宮に参り、除厄をしてもらった。六十一になると男女共還暦の祝いをした。除厄は自分でし、還暦からの祝いは子供が祝うものだと言ったものだった。七十になると長七を祝い。、七十七に成ると喜の字の祝いをし。八十になると長八を祝い、八十八になると米寿を祝った。九十、九十九、百のあ祝いがされたが滅多になかった。

○ 葬式

   人が誰でも長生きと幸を願って色々な行事もし,(主に願い事を神仏にした)けれど人の、寿命が尽きると、死が来る。人が死すと先ず近所の人が集まって、色々相談し親類に知らしに行った。この時必ず二人が一組になって行った。時には昼でも提灯を提げていった。お葬式の日には、念仏講の人達が集っまって、葬式の仕度をした。土葬をするときは棺を埋める穴を堀った(深さ一メートル余りの穴を掘ることは大変だった)また火葬の場合、燃料を火葬場まで連んだ。其の上お花の用意、門口にこもをたてたりした。葬式は多く夕方にした、葬式は行列をつくって葬儀場までにき、そこでお葬式をした。行列は大体次のようにした。順を挙げますと次の様でした。真言と一向とでは細部は少し違いますが、大体同なじなので、真言のを書きます。前火⇒六地蔵心木⇒灯篭⇒手花⇒花輪⇒四花⇒四本幡⇒手燭⇒香ろう⇒露路台⇒伴僧⇒導師(傘曲ろく)⇒お位牌(喪主)⇒杖笠(孫)⇒棺(天蓋)⇒膳の綱(多く成人の女で喪服に袖帽子をかぶった)⇒親族⇒一般参列者⇒殿 のようでした。導師による葬式は、大体今と大差は無かった様です。葬式が済むと大体念仏講の人達で埋めたり焼いたりした。葬式から帰ると塩で清めた。

垣生の交通

垣生は島といってもよい程で、垣生山を中心に海が山に迫り、今の垣生三丁目・四丁目あたりは殆ど海であっだ。(女乙山の椋の樹に船を繋いでいたとか、浜中、二開、三開等の地名からも想像できる)垣生に一番始め人が住んだのは古垣生であったそうで、そこに住んで居た人が今の垣生五丁目の方にいったとき帰りに待ち合わした所を今待合谷(まちゃたに)という地名で残っている。こんなことから垣生三丁目あたりは海で人が通れなかったと想像される。交通を考える時先ず道路からみてみたいと思います。明治の中頃まで車(今の自動車ではなく、リヤカー程度の車のこと)の通れる道はどれだけあったか調べてみますと、

東から

一  三丁目九辺りから法泉寺前迄(往還ともいった)山端の大
      道。太鼓台も通った。

二  法泉寺前より鳥端を経て宇高の方へ.

三  法泉寺前より中津を通って町まで。

四  三の道を北沖まで(葬列道 そうれんみちともいった)

五  町の表道(太鼓道ともいった)


  六  四丁目六付近(今道が移転している)より、公民館の前を
      通って江の口を経て松神子まで(お寺道ともいった)

  七  お宮の馬場の道

八  法泉寺前より小路を経て小山の近くまで。

等でその中でも中津の道は四丁目十一の三七と三八の間の道を通ってた。車の通る道が今のように沢山増えたのについて垣生の先輩が多くの犠牲を払ってくれたことを忘れてなるまい。荷車もなかった時代は百姓は農産物を自分の家に取込むのに全部担ったり背中に負ったりして運んだ。荷車が普及したのは大正の半ば頃、それと共に車の通れるよう道をだんだん広げた。(それには道の側の人が土地を提供して広げた)荷車が出来て百姓が喜んだがそれを買うあ金が無い百姓が多かったので車講を造って買い易くして買った。リヤカーが普及したのは昭和になってであった。荷車からリヤカーになった時、荷が軽く運べるようになったと、喜んだ。

垣生の交通(二)

垣生の主要な道路

    一  垣生一丁目六・七。四丁目八・十二の交叉てん(通称         
         辻 以下辻という)辻より江の口までの県道-大正十
         三年頃小路山の土をトロッコを牛にひかせて運びつ
         くった。当時の費用一万六千円であった

    二  中津の路が改修されたのは昭和七年だった。


    三  長岩橋ができたのは昭和九年。それまでは潮が干い
         ていると跳石を跳んで渡り、潮が満ちている時は、
         渡し舟で渡った。渡し舟は有料であったが山端の人
         は後でかためて払った。(年24本)
    

    四  唐樋から八幡一丁目・宇高五丁目迄(通称大溝)の川
        岸は人も通にくい程の道だったが昭和十年頃改修し
        、戦後大改修して今のように車の通れる道になった。 

鉄道

 予讃線が西条まで開通したのは大正九年だった。汽車が開通した時多喜浜駅からよく見える垣生山に板で大きくハブと看板を建てて垣生を知らした。開通当時の汽車の客車は今と違い便所が無く中に通路も無く十人程が一仕切りの中に乗っていた。出入り口は一両に六つぐらいもついていた。開通した日阿島に臨時に駅を造って、始めての汽車に沢山の人に乗ってもらうようにした。開通した時多喜浜駅から江の口迄道ができた。

 県道が今のように多喜浜駅から垣生を通って新居浜まで出来た。当時今のように舖装してなくバラスの路であった。その為江の口と垣生の間に賂の補修の為のバラスを置くところがあった。(四畳半位の広さがあった)県道を絶えず直す人がいて(大概一人)バラスを道の低くなった所に入れていた。その時小さな旗を立てて作業の目印にしていた。

 本郷自治会館前から南部漁協の前迄の道は元の塩田の堤防であった。(今山端の大通りになっているが)この道が舗装されたのは昭和四十年頃であった。垣生の道が今のよのようにすべて舗装されたのは昭和五十年頃であった。舗装の前に道を広げることになり、市当局とカをあはせ、かなりの犠牲を払って拡張をした。拡張ばかりでなく道をできるだけ力ーブをゆるくするようにした、その結果今のように車の通れる道が増えた。

垣生の交通(海上の交通)

 垣生は海に突き出た半島の様になっている為、昔から海上の交通が盛んであった。山端の東の海は港として早くから利用されていた。垣生の農産物は山端の港から積み出された。垣生だけでなく神郷や高津で作った里芋等も垣生に集め山端の港から積み出された。積出先は大概中国路であった。積んで行く船は木造の和船で垣生にも大きな船があった。その内主なものは、住吉丸・宝栄丸・観音丸・ハ幡丸・明治丸などで、これらの船が芋等の農産物を積んで中国路にいき、帰りに海産物を積んで運んだ。

 垣生では造船もやったが、大きな船は今治等で造り、垣生では主に漁船をつくっていた。漁船が今のように木造が殆ど無くなって次次と閉鎖されて造船所が無くなってしまった。山端の港も埋立てが進んで昔の面影が無<なってしまった。漁港として一部便用されているが埋立てが完成し、新居浜の東港として大きく生まれ変わった。

 町の北の沖は港らしい港が無かったが、漁港として改修し立派な港になり漁船が多く出入り出来るようになった。話を少し遡らして汽車が開通していない時は垣生の北沖に小さな汽船が寄港していた。港が無いので沖に汽船が着くのではしけで汽船まで人や荷物を遅んだ。其の仕事をしている家を回送店という屋号でよんでいた。垣生には色々な舟があった、小さいのから挙げると伝馬舟、釣り舟、えび漕、ぎ舟、流せ船、うたせ船、上荷の船、千石船等があった。(伝馬舟は二尋・釣り舟は三尋位だった)昔は船はかい・櫓・竿などで進めた。又風のある日は帆を張って進めることもあった。動力を使用しだしたのは昭和になってであった。

動力を使用したことで舟の行動範囲は随分広くなった。従って荷物も速く目的地に遅べた。又魚も沢山取れるようになった。汽車が開通して北沖に寄港していた東予丸が寄港しなくなった。従がって回送店も仕事をやめた。垣生の港は専ら漁港となって漁船が沢山集って魚の荷上げをしていた。









秋祭りの思い出

太鼓台の事

 秋祭りが近ずくと、青年が集まって、太鼓台の運行の準備に入った。(今は自治会が中心になってしている)昔は、青年団が団員も多く、しっかりしていた。先ず太鼓台の車を水に漬けた。(車を木で造っていたので、はしゃいでいたので、それしめすため)山端はタンポ、本郷はお池、町は赤池。1週間近く漬けた。車に金属の輪をはめたのは、大正の中頃だった。今の様なゴム車にしたのは戦後から、太鼓台の飾りもかなり変わった。今の高覧幕は、始は無くもたれ布団であった。それが明治30年の中頃から、だんだん高覧幕になった。昔は、男がカが強く殆ど担いだ。喧嘩もよくやった。その為に太鼓台がだんだんおおきくなった。四本柱も、けやきの木で造った。成年の喧嘩で四本柱が折られたりしたため、今の様に鉄のパイプに替えた。飾り幕もだんだん豪華になった太鼓の叩きかたもだんだん変わった。(太鼓台の準備の時青年が集る時、寄合い太鼓を叩いて集まった。)お祭りが昭和十年頃川東が十月十四・五日に統一された。

 太鼓台が、八幡さんの氏子に五台あり。郷にも三台あった。お祭りには、ほとんどの家にのぼりを立て。その上部落には、部落ののぼりを立てた。提灯を吊った額も建てて、お祭りを祝った。お祭りにお餅を橦いて親類等に持って行って、お祭りに来てくれるよう案内した。お祭りにおよばれに行くことをイボに行くといった。(イボとなぜ言ったか、言葉の起こりは、衣鉢から来た言葉らしい、衣鉢は僧侶が托鉢乞食する意から出た言葉で。それが何時のまにか、お祭りなどに人を招き酒食を饗すことをいうようになったらしいと。)イボに行くと必ずお返しに行った。このような事は、お祭りが統一(新居浜市)されて段々やらなくなった。のぼりも建てる家が少なくなり、ご神燈も減った。お神興も人が担ぎ神主が馬に乗り、部落を廻った。其の時お神輿におさい銭を供える人がかなりいた。又お祭りに色々な催し物があった。若い者向きに映画が必ず「えびす座」に出張して上映された。其の外広場に小屋掛けして、芝居なども上演された。

 お祭りに、太鼓を担ぐ時長じばんを着て粋な格好をした姿で担いだ、女の子の憧れの的になった。

秋祭りのあれこれ

○垣生に舟丹御幸があった。

〇明治時代はお祭りは旧の八月十五日であった。悪口をいう人がお祭りに蚊帳を質に入れてお寿司をつくったのだろう。だから垣生のお祭りの寿司は蚊帳の寿司だといってひやかしたとか。  

○お祭りが十月十六・七・八日になったのは垣生が新居浜市に合併してしばらく経てからでした。

○高覧幕が今の様になる前にもたれ布団があった事は既に述べたが、高覧幕が明治の終わり頃から着けたといいますが、中々高価で買う事ができない或る部落が、川西の或る太鼓台のを借りて着けたといいます。其の時の借り賃は五円であったとか。借りたのは借りたが高覧幕の巾は二十センチも狭く足りない分を葉で補ったとか。      

○高覧幕が買え無い時蓑を着けた事も有った。 (大正の中頃)  

○太鼓台が喧嘩の時も中々飾りをのけなかった。(大正の頃)昭和になって喧嘩の時飾りをいちはやく除けて裸になっ喧嘩する事が多くなった。

○担ぎ棒の長さは脇捧が随分大きかった。

○坦き棒の長さを警察が厳重に調べた。(長い方が喧嘩に有利だから競って長くしようとしたので長さを統一した、検査に合格すると焼判をおしたものだ。

○明治二十七年(1894年)に太鼓台の大喧嘩が有った。垣生の三つが組んで高津の二つと喧嘩をして高津の太鼓台をばらばらに壊してしまった。その時お宮の塀の瓦を投げ合って喧嘩しため怪我人も多くでた。其の上人間の喧嘩もした。最期は壊した太鼓台に石油をふりかけ火をつけて燃やしてしまった。その年垣生の人が宇高の畑に独りで耕作に行くと危険なので多人数で行った。

○川東には荷内・郷・落神にも太鼓台があった.大島の太鼓台は昭和十年頃まであった。黒鳥にはだんじりが有ったがやんでしまった。

○担き棒等を今はロープで括るが昔は蔓で括った。祭りが近づくと青年が一日がかりで南の山に出かけて蔓を取って帰り軟らかくして使用した。

○布団締という名から考えて今の重は布団でなかったかと思う。(長崎にその原型らしいものが現存している)

○昔中幕があった。中幕は一枚に続いているのが多かった。

垣生でお祭りに太鼓台に車をつけて運行したとき、よく歌ったうたに、やっとせー節しがあります。その歌詞を前に一部載せましたが其の後歌って呉れた人がいました。其の歌詞は次のようでした。


   ○エー
     やめておくれよ 賭博と酒を ヤツトセー ヤツトセー      私も止めます、まあとこを ヤツトセー ヤツトセー


   ○エー
      白い白む<白い手で招く ヤツトセー ヤツトセー
      盆においでと言うて招く ヤツトセー ヤツトセー


   ○工−
     わしら若い時は、野田迄通うた ヤツトセー ヤツトセー
     野田の川原で夜が明けた ヤツトセー ヤツトセー

 
   ○工−
     ぽぽにけのない       ヤツトセー ヤツトセー
     登り下りで擦り切れた    ヤツトセー ヤツトセー


    ○エー
      娘十八と新造の舟は ヤツトセー ヤツトセー
      人が見たがる乗りたがる ヤツトセ− ヤツトセー

  
 昔は派手な服装で太鼓台を大きな木の車を着けて運行しながら、ざれ歌混じりの歌詞を即興で歌っていた悠長な姿が想像されるようです。