垣生の始めと終り

  自転車          大正の始め頃から

  蓄音機     大正の中頃に

  ラジオ     大正の末頃から

  テレビ     昭和三十年過ぎから

 ガソリンポンプ 昭和五年より

 農業の機械化  昭和三十年代のなか頃より

 田植え機    昭和四十七年頃から

 トラックター  昭和五十年頃より 
        耕運機はこれより前十年も前より

防雀綱     昭和四十年代から、
          六十年頃になって少しずつ減った。

 電気      大正の始め頃より、大東は少し遅れた

 水道      

昭和二十六年に始めて引かれた。山端より水源池を浜地に掘りポンプで山に揚げ水圧を掛け配水した後小学技の前に水源池が移った。市に合併して水源池は神郷に移った.   

 葬式のときの花輪を贈るのが廃止されたのは、昭和四十年頃だった。葬式の葬列がやみ告別式になったのは昭和三十六年の中ば頃から垣生の火葬場が廃止されたのは、昭和四十五年頃だった。土葬が昭和三十年頃からだんだんやんだ.

 葬式の時    
門口にこもを立てるのも四十年頃より段々止んだ。

 垣生の新生活運動 

戦後生活の見直しより起こった。

昭和二十五六年頃より言い出した.

やったこと   

かまどの改良 食生活の改良 居住生活の改良 上水道の設置 結婚の合理化 葬式の自粛 等婦人会が先頭にたって起こした。

 家庭のポンプ  昭和の始め頃より設置した。


 大八車
       明治四十年頃より家々に購入した。車講があって買い
       易いようにした。自転車もあった。

 


  写真
        明治四十年頃より。ガラスの乾板であった。惣開の
        真鍋さんは写真の草分けらしい。


○正月にやってきたでこ回しの唄

やれやれ奥さん ごじやめんな 福はとうに御礼に こうとおもおたが あちやこちやと こと忙しうて 隣の八兵衛さん所で とうしみのしたしもの 軽石の握りまま 端と支度してまいりました 福はこけても鼻うたん ホホホホ

    と唄いながらでこを器用に使って門に立った。御餅等をもらって帰った。このでこ回しもう見られなくなった。

○足洗いのこと

   村の田植がすんだとき、一斉に仕事を休んで休息をした。足洗いのとき役場からリンを振りながらが大声で振れて回った。足洗いの日は一人も田畑に出て耕作をしなかった。もし田畑にでて耕作した者あった時は違約金を徹収したこともあった。但し塩田の作業は休まなかった。足洗いは大概旧の六月一日にした。

   休日を強制的にしたのが労働のきつかった事を思う時せめて一日天下晴れて休めたのは大概うれしかったことと思う。

○仕事を休んだ日

   足洗いの日以外で仕事を休んだのは正月三力日と七日と十一日の仕事始めの日・十四日十五日の小正月と十六日の仏日、二十日(二十日正月)二月一日  日【送っ正月】 等

年令により休んだ日 年寄り 念仏講 主婦 子安講 子供 天神祭り

職業による休み   鍛冶屋 ふいご祭り 

商人  恵比寿講 

山人 山の神の祭り

魚業者 綱玉おこし

下男下女は     やっこ日和

               やっこ日和とは(夜晴れ 昼雨の
                      天候の日)

○垣生で昔時計の無いときどんなにして時刻をしったか

 潮の満ち干で 一日のよつたたい 

三日の朝はしり 

七日八日かれ小潮

九日十日明け暮れたたい

十五日のよつたたい(よつとは今の午前十時頃)

二十四・二十五日あけくれたたい

   だいたいこれで差支えがなかったらしい。 短時間は線香等でした。(太鼓の組み立ての時等に使った)太鼓やお寺の鐘で知らしたこともあった。

○昔の時刻の呼び方

  ここのつ ねのこく   午前零時(三こう)  

   ここのつはん ねふたつ   午前一時

  やつっ  うしのこく  午前二時      

   やつっはん  うしふたつ  午前三時

  ななつ  とらのこく  午前四時      

   ななつはん  とらふたつ  午前五時

  むっつ  うのこく   午前六時      

   むっつはん  うふたつ   午前七時

  いつつ  たつのこく  午前八時      
   

   いつつはん  たつふたつ  午前九時

  よっつ  みのこく   午前十時      

   よっつはん  みふたつ   午前十一

  ここのつ うまのこく  午後零時      

   ここのつはん うまふたつ  午後一時

  やっつ  ひつじのこく 午後二時      

   やっつはん  ひつじふたつ 午後三時

  ななつ  さるのこく  午後四時      

   ななつはん  さるふたつ  午後五時

     むっつ  とりのこく  午後六時      

   むっつはん  とりふたつ  午後七時

  いつつ  いぬのこく  午後八時 初更   

   いつつはん  いぬふたつ  午後九時

  よつつ  いのこく   午後十時      

   よっつはん  いふたつ   午後十一時

年寄りから暮れむつ明けむつといっていた.どうも夏と冬とで今の時刻とずれていたように思うと言っていた言葉が印象に残っている.時計が垣生に入ったのは明治二十年頃らしい、一般に使われたのは明治三十年以後であった.(時間があまり必要がなかった)朝夕御寺で鐘をついて、お宮では太鼓を打って時を告げるようにしていた。農家に作男として住込でいたことのある或る年寄りが仕事の事について次の様な話をしてくれました「朝小便したくなって起きると夜が明けていなくても必ずそれから仕事をさされるのでじっと辛抱したもんだった.」 と。

農家の仕事は時間が長かった.朝飯前に麦を一うすつかされれることが度々あった。午前に一回午後に一回休みがあった.其のたびに軽い食事をした事もあった。(午前のを小昼といい午後のを茶飯と呼んでいた)夜も作業することもあって夜食も食べた.栄養価が少ない食事だが回数は多かった.(一日六回食事はざらであった)従って胃拡張きみの人が多かった.人が生れるときと死ぬ時は潮の満ち引きに関係かがあるといった.(生るときは満ち潮、死ぬときは引き潮のときといわれていた)農作業の時仕事をしているところに弁当を持っていった.弁当は弁当ふごに入れて持っていった。昼などは太陽の高さで大体分かった (日時計を使った事があったと話してくれた年寄りがいた.日時計は直径七センチ位の丸い形であった.太陽さえ出ていれば時刻は分かった.今の懐中時計の様に便利であった.)

 時間を正確にすることが必要になったのは大正になってからであった.特に汽車が開通してから其の必要が増した.たんぽにでて居て汽車が駅にとまるのをみてもう何時ごろだといったりした。

垣生のキノコの思い出

 秋になると あの香りの高いキノコが垣生山で沢山取れた.キノコの中の王さんは松茸だがこればっかりは垣生山では殆ど取れなかった。松茸は垣生山で取れなかったが、阿島 船木等で多く取れた.最盛期には毎日荷馬車で駅まで運び貸車に積んで遠方まで(大阪 神戸)何輛も運び出していた.松茸の行商も多くリヤカーに松茸篭に松茸を山盛りに乗せて食欲をそそる香と共に売り歩いた。無論値段も大変安かった。大きく開いた松茸を二十銭で買ったことをどうしたことか覚えている.会社に勤める人で通勤の途中 松茸を一本買って会社に行き昼にそれを焼いて弁当のオカズにする人もあった(昭和十六年頃)従って松茸狩りも度々やったものでした.それも昭和三十年代にはいって段々取れなくなり 四十年代にはいって殆ど取れなくなりとうとう貴重品扱いになってしまった.

 垣生山でスベリンコがよく取れた.子供でもめ篭にいっぱい取る事もあった。このように沢山取れた時は大きなのを 適当に裂いて日に干し正月等の料理に使った。スベリンコは垣生の俗名でシメヂと呼ぶところが多い。ハッタケも良く取れた.ハッタケは匂いも味もよく好まれた.松露は松の林等で取れた.(お宮や海岸の松の茂って居るところで取れた)ワアラも時にお目はかかることがあった。(こののタケは珊瑚のような形をしたタケで味がよかった.)が今では殆ど取れなくなった.松茸をはじめ天然の茸類はとれなくなってしまった。寂しい。ついでに垣生山で取れた木の実を挙げるとグイミは樹木の茂った薮の中等に赤い実をつけていた.子供が好んで食べた。シシャブはグイミ似にていたが粒がグイミより小さかった。味もグイミよりしぶみが強かった.子供がグイミのほうを好んだ.桑の実 ポテの実 ムクの実等も子供が好んで取って食べた 高い木の上の木の実は年長の子供が年少の子供に取ってやっている事が度々見られた。