垣生の聞き語り

昔話


1しらあえの話 

田舎料理(垣生あたり)の一つとして喜ばれるものに「しらあえ」というのがある。コンニャクを細かく切り、ゆがいてそれに豆腐をくだいて入れ、調味料を加えてつくった料理で、その起こりについて、垣生の年寄りから次のような話を開いた。

 昔のことであった。明教寺(松神子にある)の裏門で、コンニャクと豆腐が自慢話を始めた。「何といっても人間の役に立って好かれるのはコソニャクだ。」と言うと、豆腐は負けずに、

「それは違う。人間に好かれるのは色の白いきめの細かい豆腐だよ。」

と負けずにいい返し、お互いに譲る気配がない。とうとう大声でロげんかを始めた。あまり声が大きいので、明教寺の和尚さんが駆けつけ仲に入って、コンニャクも豆腐も細かくくだいてお互いもつれ合う「しらあえ」になれといったのでそのようにしたとか。

              (垣生の昔を語る会で話されたもの)

2 長ぼんぼりの話

垣生に伝わる昔の話です。浜中に(本郷の一部)代作というたいへん孝行な若い衆が、母と二人百姓をしてひっそりとくらしておりました。代作は父が早く死に十四、五歳で家の大黒柱となり、大人にまじって日雇い稼ぎで人々を感心させていた若者でした。母は六〇歳を過ぎて一人前の働きができず、息子代作の助けがいる生活でした。当時地域のならわしで、年を取って働けない老人は、みな一様に「番屋嶽」で往生することになっておりました。(番屋嶽の地名は今もあり、垣生山の北の隅を少し登った所、現在灯台がある所を苫立山といいます。その苫立山の峰を登って長磯の頂上までを「番屋嶽」といっています。それは昔西条の殿様が紀州よりお国入りの折、この崖の頂上附近に「番所」を設けて水先案内の役人を置いて下段の「苫立」でのろしを揚げ「御代島」に合図を送った地点で地名として今に残された山崖です。)

その時代は、年を取るとみな一様に「番屋嶽」を老人の墓場としておりました。代作の母親は「大作や、わしも年を取りすぎて番屋嶽に行くのが遅れとる。隣の婆も昨年の今ごろは山に入ってしもとった。 秋の甘藷の取りこみがすんだら、寒うならないうちに、人に気付かれないようにして山に行きたいわい。支度も前々からして、覚悟もついているから山へつれて行ってくれ。」といって頼みました。孝行者の代作は母の願いは切なく、また母が恋しい。一度はふみきらなければならない悲しい別れです。地域の掟にはさからうことはできません。

「それでは婆々さんや、今月の満月の夜、地区の年寄りの待っているお山に行くことにしようや、今晩は私が負い籠をつくることにするかいな。」と代作は、涙ながらに作業にかかった。

 親を慕う子、子を思う親心、貧しいがゆえに親子が離別しなければならない心境は今の世の人には知るすべもありません。月の煌々とさえる晩に代作は母を背負い、淋しい山道を重い足をひきずり番屋嶽に向かって歩みました。「母さんよ、このマツの根方に草を敷いて寝床をこしらえるから、ひもじゅうなったらこの袋の中の甘藷か、握り飯を食べてくれいやあ。竹筒に水も入れて来たきに飲むんぞな。誰も来んから一心に北の方「明神嶽」を拝むのよ。「大明神」は吾らの守り神だからねや、優しくおかげを授けてくれるけにのう。三日して月が昇るとまた来るからのお。」親は子の手を取り、子は母の涙を堅い手で拭いた。切ない別れをして代作ほ、とぼとぼと家路についた。代作は、仕事も手がつかず眠られず、三日後の月の昇るのを待ちかねて「苫立」の「番屋嶽」へ登っていきました。「姥口」を過ぎて北の方を眺めると一丈余(約三メートル)もある長い長い提灯が青白くともり、月に映え、代作の歩む草むらを照らしておりました。「ああ母さんが、わしを案じて導いてくれているのだ。」と心はやり、母を置いたマツの根方に行ってみると母の姿ほなく、大明神の方向でキラキラと三度光が放たれるのを見ました。

 それから後も、番星嶽から苫立にかけて、月夜の晩長い長い提灯がつくという話が残っています。
                       (八幡三 故・近藤政好投稿)


3 畑でタコを獲った話

 昔、垣生の北沖(垣生六丁目)の海岸近くの砂地の畑に、アズキをつくっていることが多かった。ある年、いつものようにアズキをつくっていた。雨加減がよく、その年はアズキの豊作が見込まれ百姓が喜んでいた。収穫期が近づいた頃から、毎夜のようにアズキが何者かに盗まれるようになった。それも多量でなくさやは残っているのに実だけが盗まれている。不思議なことに砂地なのに人の足跡が残っていない。百姓は、毎晩少量だが盗られるので腹を立て見張りに行った。月のない夜だったがまたも盗られた。業をにやした百姓は今度は家族全員で番をすることにし、どうしても獲えてやろうと意気込んで畑の番に出かけた。月が出ていないが星が降るような晴天だった。星明かりに眼がなれた頃、アズキ畑に背の低い坊主頭の者が入って来た。じっとみていると、低い坊主頭がだんだん番をしている百姓の方に近づいて来た。持っていた棒が届きそうになったので、坊主頭目がけて打ちおろした。たしかに手ごたえがあった。坊主頭のものが、「キュー」といって倒れた。百姓の家族は、すぐ持参の提灯に火を入れて集まった。よく見ると大きなタコが倒れている。虫の息で。

百姓は、「海でタコを獲った話ほあるが、畑でタコを獲った話は聞いたことがない。」といいながら大きなタコを担うて家に帰ったとさ。
                            (垣生の昔を語る会で出た話)


4 川口の大石さと石の錨

 垣生五丁目八・九番の付近の入江を、昔から川口と呼んでいました。

 その川口に、聖徳太子が垣生においでになり、船より陸に第一歩を踏みしめたといい伝えている大石があります。その大石に人の足跡がついています。それを聖徳太子の足跡だと呼んでいます。

 その大石より西南約300メートルの所に(垣生五丁目四番)聖徳太子を祀っている太子堂があります。(垣生の人はお太子さんと呼んでいる)今は無住(住職がいない)のお堂ですが、つくりはしっかりしています。その太子堂の境内の西南の隅に、太子が上陸する時舟を固定するために使ったという石の錨があります。大きな石に縄を通した穴だという穴もあいています。

(垣生の昔を語る会で出た話)


5 尻切れウマの話

垣生の小路の地域のはずれ(小路より町へ通ずる道のはずれ)にお地蔵さまを祀った小さな堂があります。昔から地区の人たちが「お地蔵さん」と親しく呼んで信者の多いお地蔵さんでした。

 昔はこのお地蔵さんの付近は人家のない淋しい所でした。子供たちは、夕ぐれ以後ここを通らないといけないお使いなど怖がって行くのをいやがりました。

それは本郷あたりの大人が子供の躾の一つとして、「そんな悪いことしよったら、お地蔵さんの尻きれウマが出るぞ。」といっていた。また子供が外で遊んで日が暮れても遊びほうけてなかなか家に帰らないことがあると、「さあもう帰らんとお地蔵さんの尻きれウマが出るぞ。」ともいった。そのことがきいて子供は昼でもお地蔵さんの前を通るのを恐れるようになったのだろうといわれている。          (短生の昔を語る会で出た話)

6 石鎚山と米軍用機

今度の戦争の末期、垣生で次のような話がされていた。

 「アメリカの飛行機が広島や福山などを爆撃に行くのに、石鎚山の上を飛ばずに豊後水道や紀伊水道の上を飛んで行くのは、石鎚の神様が、自分を足の下に見おろすようなことをさせないように飛行機が飛べないようにするためだ。やっぱり日本は神国だから。」といっていた。
(垣生の昔を語る会で印南菊太郎さんが話してくれた)

7 天狗岩の七人みさき

 垣生の東海岸に古垣生という垣生で最も早く人が住んでいたという所がある。その古垣生の北の端に岩が天狗の形に似ているといえば似ているというので誰いうともなく天狗岩と呼んでいる岩がある。(今、新居浜東港の埋立で陸地に囲まれた形になっている。)


 昔、その天狗岩の近所でかわいい娘さんが身を投げて自殺した。それ以後その死んだ娘さんが七人まで人を海に引っばりこんで死者の仲間にするのだといったとか。で、垣生の人は「天狗岩の近くで海水浴をしていると七人みさきの海に引っぱりこまれるぞ。」と言いつたえている。

                (垣生の昔を語る会で出た話)

8 金比羅宮の大マツ

 垣生三丁目の長岩橋の近くに、金比羅さんに祀ったお社がある。石の鳥居・石段などかなり年を経ているようだ。この金比羅宮に大きなマツがあったそうです。何百年経ていたのか、枝が今の山端の自治会館まで伸びていたといいます。身軽な若者が夏などその大マッに登り、横に出ている枝に背をつけて昼寝としゃれこむ人もいたといいます。

文化三年(1806)、垣生に大火があって山端地区がほとんど焼けてしまいました。

焼けた家200軒ともいわれる大火でした。その大火によって、山端の者が自慢し大事にしていた大マツに火が移り、七日七夜燃え続けとうとうあとかたもなくなってしまったといいます。その大火の時法泉寺の壇家の方々が、お金や食料や衣類などをお見舞いとして集めて山端の難民に義損して下さいました。復興が済んで、山端の人々は法泉寺へのお礼に大きな手水鉢を寄贈しました。


9 嬶みせどころ

 昔、垣生の浄土真宗の門徒の人が京参り(本願寺参り)に行った。何といっても京は京です。本願寺詣りをすませ、何もかも珍しいものばかりの京見物をいたしました。京の町を見物してあるいていると、ある店に、「カカミセトコロ」と看板の出ている店を見つけました。垣生の人の息子(あととり)はちょうどお嫁さんの募集中でしたが、農家の息子でなかなか嫁さんが見つからず、少なからずあせっていました。「カカミミセ」と書いてあるのを見て垣生の男は心の中で、「さすがは京じゃ。お嫁さんを売る店まであるのか。来年は忰を連れて嫁さんを買うて帰ろう。」ときめ、垣生に帰って一生懸命に働きお金をたんと持って翌年忰を連れて京に上った。目ざす店の様子がすっかり変わって店の看板に「コトシヤミセソ」と書いてある。今年は見せてもらえないのかとがっかりして垣生へ帰った。今年は見せてもらえなかったが来年は大丈夫と、また一年一生懸命に働いてお金も十分持って京に上った。が、目ざす店はあい変わらず、「コトシヤミセン」と書いてある。去年、コトシヤミセンであったので今年はだいじょうぶと思ったのに・・・・・。

 合点がいかんので店に入ってたずねると、「私の店は琴・三味線屋です。それをカナで書くとコトシヤミセン(今年しや見せん)です。」というので、垣生の男は「嬶みせどころと三年前に看板が出ていたでしょう。」といってたずねると、「それは鏡店でした。(カカミセドコロ)」とのこと。垣生の男は、カナで書いているのを自分に都合のよいように読んだことがわかって大笑いするとともに、がっかりして垣生へ帰った。垣生の男は、京で嫁さんを買うなどということをあきらめ、一生懸命働いて垣生のすばらしい娘を嫁にもらって幸福にくらした。
       (今から七十年程前垣生の老人園部某よりきいた話)

10 タヌキのいたずら

 垣生にも昔からタヌキのいたずらの話がいくつか残っている。雨が降ると、タヌキが山から下りて来て人家の近くで食物をあさっていた。人家の近くの (垣生三丁目と四丁目の境あたり)往還の、石の橋の下でアズキを洗うような音がよくしたので、アズキ洗がおる、アズキ洗がでたといって子どもたちは恐れていた。唐樋の入海(今、江ノロのポンプ場のあるあたり) の潮が干いた干潟を、夜半誰か走っている。月明りによく見ると、垣生のお医者さんであった。それを見た村人が声をかけると、「病人の家へ行きよるんじゃ」と答えた。タヌキに化かされたのかと、村人が数人でお医者さんを入海より引き上げた。お医者さんも、タヌキに化かされたということがわかって大笑いした。(昭和五五年七月九日 垣生の昔を語る会で出た話)

11 大魚のいたずら

昔のこと、垣生山の東の沖(今、新居浜東港としてフェリー乗場になっているあたり)を山端の漁夫が、まだ暗いうちに舟を出して長岩(今は埋立てられて陸地になっている)を避けて天狗岩の近くまで来た時、舟が何かに乗り上げて仕方なくなってしまった。漁夫は、はてこんな所に岩などないはずだと、少し東が白みかけて薄あかくなって来たので、目をこらして見つめると、舟が大きな黒いものの上に乗っかっている。どうも見たことのない岩だ。なお目をこらして見つめると、大きな魚のように見える。漁夫は恐ろしくなって、舟の中でぶるぶるふるえていた。ふと、毎朝家でお念仏を唱えて漁に出るのに、今朝は忘れていたことに気がつき、一心にお念仏を唱えほじめた。しばらくして、大きな魚がしずんで舟が浮き、櫓(やぐら)が使えるようになった。漁夫はいちもくさんに垣生の舟だまりに逃げ帰り、二、三日寝こんでしまった。それよりあとそのような魚をみたものはない。物語修正 H.14.3.10

12 いの谷の大蛇

昔、垣生山の「い」の谷に大きなへビが棲んでいた。がこのへビは人に危害を加えることがなかった。垣生の人は、何人もそのへビを見ましたが、見て見ぬふりをしていました。ある年の夏の終わり頃、大きな台風がやって来ました。山端のある漁夫が、つないであった舟の様子を見に長岩の方にやって来ました。東の風が強く、岸に高波が丸山口から清水谷に打ち寄せて、古垣生の方へは行けない状態だったそうです。その時、ふと沖の方を見ると大きなへビが、大波の中を泳いで大島の方にけんめいに渡っている姿が目に入りました。漁夫は恐ろしくなって自分の家に逃げ帰りふとんをかぶって寝た。

 百姓は台風でお米が不作であろうと心配していましたが、その年はあんがいお米がよく取れました。それから後も、「い」の谷の大蛇が大時化の時大島の方へ泳いで渡っているのを誰かが見かけると、その年は豊年だというようになりました。
(昭和五五年七月九日 垣生の昔を語る会で印南菊太郎さんが話をしてくれた)

13 女乙山の白蛇の話

 昔、垣生の法泉寺の裏山の女乙神社に、本郷の青年がお参りに行こうとかなり急な石段を登りかけ、ムクの木の側まで行ってひょいと右手を見ると、男竹の生えている側に白い大きなへビがトグロを巻いていた。それを見た青年ほ、恐ろしくなって石段を駈けおり、家に逃げて帰った。

 だが、もう一度確かめたくなって友だちを誘ってムクの木のそばまで行ったが、白蛇はいなかった。しばらく日を置いて、ある男の子がムクの木に登ってムクの実を食べて得意になっている時、ひょいとそばに大きなへビのぬけがらがさがっているのを見つけ、恐ろしくなって足をすべらしてムクの木から落ち何針も縫合するけがをした。三木さん(医師)に、手当をしてもらったが、いっこうによくならない。おかしいと思って家族の者がおがんでもらうと、「それはへビのたたりだ」といわれたので、女乙山のムクの木のそばの男竹の近くにへビの好きなものを供えて許してもらうようおがんだ。それからはけがのなおりが早かった。女乙山の白蛇はそれよりあとも何人もの人が見かけたそうな。

                   (垣生の昔を語る会で話してくれた話)

14 玉崎明神の話

昔、垣生の町の地域の北側に、弁財天塩田のあった頃の話です。

 町より北の墓地に通ずる道を、誰いうともなしに葬列道(ソーレン道)と呼んでいました。そのソーレン道より東側の塩田で、ある寒い夜、釜屋で中年の男が一人で釜を炊いていました。そこへ地域で見かけない美しい娘がやって来て、「旅の者です。泊る所がなく日も暮れてしまって難儀しています。釜のはたでもよいから一晩とめてください。」といいました。その頃、タヌキが化けて出て人にいたずらする話がよくされていたので、釜たきの男は、てっきりタヌキが化けて娘の姿になって出て来た、せっかくの塩にいたずらされてはたいへんと腹の中で思い、親切そうに見せかけておいて娘に油断させ、頃をはかって娘をつかまえ燃えさかっている釜に投げこんで炊き殺してしまいました。それから、町地域に悪い病気がはやったり、雷があまったり(落雷したこと)、塩田の土手が決潰したり、火事があったりしました。

悪いことがつぎつぎに起こったのを心配した町地域の人たちは、これはてっきりあのタヌキの化けた旅の娘を焼き殺したたたりにちがいないといい出す者もいて、それではどうしたらよいかと相談した結果、神様に祀ってこらいてもらったら(許してもらうこと)と話がまとまり、小さなお宮をつくり、八幡神社の神主さんにおがんでもらい、玉崎明神と名づけて毎年お祭りをした。それから町地域に悪いことがなくなった。
(70年程前に海の近くに玉崎明神の社があったがいつ頃か行方がわからなくなってしまった。)

  (昭和五五年一月三〇日 垣生の昔を語る会で 故岡 彦吉氏の話の要約)


15 女乙山のムクの樹に舟をつないでいた話

 垣生の法泉寺の東南に宮がある。そのお宮は小高い所にあり、70余段の石段がある。その石段の中ほどの左側に大きなムクの樹が天に向かって立っている。そのムクの樹に昔船をつないでいたという話が語りつがれています。

 昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、垣生に立ち寄られ、そのムクの樹に軍船をつなぎ、船木の木を切り出して、軍船の修理をしたという話が残っている。垣生はかなり後まで島のようで、垣生五丁目あたりが洲のようであったらしいと古老がいっている。遠浅で満潮の時は、垣生三丁目、四丁目あたりは垣生山の麓まで、海の潮が打ち寄せていた。したがって、満潮の時には女乙山のムクの樹のすぐ下に船が入っていたといわれている。

            (垣生の昔を語る会で古老が話をされたものの要約)

16 八旛神社の裏の一の鳥居のこと

 八旛神社(八旛神社は昭和3年迄八幡神社と書いていた)。昭和3年8月前宮司久米申氏が高知県葛原の旧家の古文書等の調査によって八幡神社でなく八旛神社だということがわかって改めた。その時久米申氏ほ全国に八旛神社と書く八旛さまは数社あるといっておられた(尚伊予三島市の寒川の八旛神社はこの旛の字を使っている)。神社の裏の海岸に鳥居が立っている。が、海の中に鳥居が残っているといわれている。八旛さんも天正の陣(1585)で焼討にあい、社殿を始め古文書等もほとんど残らなかった(この地方を攻めたのは山口の毛利勢だったという)。戦い終わった後、山口の毛利家には不幸がつぎつぎと起こった。これは、八旛宮を焼いたりしたので、八旛さまがお怒りになったにちがいないという者がいて、神様の御心をなぐさめようと、鳥居をつくって船に積み、八旛神社の裏の北の海まで運んで釆て、船より鳥居をおろそうとしていた。その時、折悪しく嵐になり、運んで来た船頭は、海の中に鳥居を投げこんで逃げて帰った(その後一部を引き上げたのが八旛神社の御本殿の側に置いてある。大部分の鳥居は海の中にそのままある)。いくたびも海中を探したが今に見つかっていない。なぜ毎に投げ入れたかについて異なった説を唱える人もある。

(垣生の昔を語る会及高津公民館で老人が話をしてくれたものの綜合要約)

17 閻魔大王と鰻長さんの話

 昔、昔、垣生に鰻長さんと呼ばれるウナギ捕りの名人がいました。本名は「長右衛門」ですが、あまりウナギ捕りがじょうずなので誰いうともなく「鰻長さん、鰻長さん」と呼ぶようになりました。その長さんが、ある夏の日急に病気になり、高熱がさがらず、とうとう死んでしまいました。長さんは冥土の国の入口に着きました。門の入口には赤鬼青鬼がいかめしい顔で立っていました。そこの赤鬼に生前の職業と氏名とを聞かれ恐る恐る立っていました。しばらくして、赤いいっそう強そうな鬼に門の中へ呼び込まれ、また生前の名と職業を問われました。長さんは、「私の生前の職業はウナギ捕りでした。」と答えると赤鬼は、「なに、ウナギ捕りだと、では一日に何匹ぐらいウナギを捕ったか。」と問われたので長さんは、「はい、はい100匹くらいのものです。」と答えるとえらそうな赤鬼は、「ふ、ふん。」といったまま黙ってしまい、しばらくして、「俺のあとに続いてこい。」といって鉄の棒をがちゃがちゃ音させながら歩くあとをついて歩きました。長さんが約三キロメートルも歩いたと思う時、大きな門の前に出ました。鬼に続いてその大きな門をくぐると、道が左右に分かれているところに出ました。右側に極楽道と書いた札が立っており、左に地獄道と書いた札が、一段と大きな字で書かれて立っていました。その分かれ道の前で赤鬼はおそろしい顔つきで、「これ長右衛門、お前は今から閻魔大王の裁きを受けて、ここから地獄へ行くか、極楽へ行くか二つに一つだ、たぶんお前は生前ウナギの命をたくさんとった大きな罪があるから、地獄行きに決まるかもしれんぞ。」というのです。長さんはふるえながら赤鬼の後をついて行きました。いよいよ三つ目の門をくぐると、法廷のような所に坐らされ、やがて閻魔大王が、大勢の家来を従えて出て来て、正面にいかめしく坐りました。長さんの両側には赤鬼が逃げないように監視しています。「今から閻魔さまのお調べがある。一つも嘘をいわず正直に申し上げよ、生前のことはみんな照魔鏡に写るのだから、わかったか。」とおごそかにいうのです。長右衛門は失神しそうに恐れおののきました。閻魔大王は右手に照魔鏡を持って厳しく正面の座に坐りました。閻魔大王は、しばらく長右衛門を睨みつけていましたが、「これ長右衛門とやら、お前は生前ウナギ捕りの名人であったというが、そのウナギの捕り方を話してみよ。」と、長右衛門さんは得意になって閻魔さまの前であることを忘れて、ウナギの捕り方を面白く話しました、手ぶりも加えて。「一日に何匹くらいウナギを捕るのか。」と閻魔さまがたずねると、

「はいはい少ない日で100匹、多い日ですと150匹くらい捕ります。」

「ではその捕り方をここでやってみせよ。」と閻魔さまのおことば、長さんは図に乗って、「閻魔さま、ウナギというやつはこのようにして捕るのですよ。」とお尻をまくって、川に入ってウナギを網代で釣る真似をしてみせました。長右衛門さんは話上手の上に、ウナギの捕り方までおもしろくやってお目にかけたので、閻魔さまは深く感心して気に入ってしまいました。

「よし、よし、感心した。お前は浮世にいた時にたくさんのウナギの命を捕ったので、地獄に行かそうと思っていたが、お前のウナギ捕りの実演を見て感心した。ウナギ捕りというのはまことにおもしろいものじゃのう。この閻魔もやってみたいほどじゃ。よって極楽行きにしてやる。ひまな時に時々遊びに来てまた別の話もしてくれ。」にこにこしながら閻魔さんが長右衛門さんにこういわれました。長さんは極楽で楽しく今もくらしている。

     (垣生の年よりの話と昔を語る会で話されたものの要約)

18 タコがイモを掘った話

 昔、浮島小学校が建っているあたりは砂地で、畑作しかできず、イモ、アワなどを耕作していた。ある年、秋が来てもうそろそろイモの収穫をしようと畑に行ってみると何者かにイモが盗まれていた。よく見ると砂地なのにどうしたことか人の足跡がない。どうも夜盗りに来るらしい。捕まえてやろうと夜番をしていた。番をしていると泥棒が来ない。姿勢をいっそうひくくしてじっと待っていた。なん夜めかに背の低いものが姿勢をいっそうひくくして這うようにしてイモ畑に入りイモを掘り出した。番をしていた男は泥棒が近づいてくるのをじっと待っていた。泥棒が手頃に近づいた時持っていた棒を思い切り頭めがけて打ちおろした。たしかに手ごたえがあった。背の低いものが「ギユー」といって坐り込んでしまった。殴った男がしまったと思って近づいてよく見るとそれほ大きなタコであった。それをかついで帰って近所の人に集まってもらって料理をして食べた。とってもおいしかった。

     (短生の昔を語る会である年よりが話をしてくれた要約)

19 山の神の祭りの日に山に入って見た大蛇

昔、昔、垣生では山の神の祭りの日には山に入ってはいけないといわれていた。ある欲の深い男が、誰も山に行かないからコキバ(コキバとはマツの枯葉のこと)がたくさん取れるだろうと思い、山の神の祭りの日に垣生山に登った。コキバがたくさん落ちていてすぐ荷ができた。ほくほく顔で、さて一服しようとそばにあった木に腰掛け、煙草に火をつけて吸った。あくをのけようと腰掛けていた木に煙管を打ちつけた。すると腰掛けていた木が動きかけた。びっくりして男は立ち上った。見ると、木と思ったものは大きなへびだった。ヘビはスルスルと草の中に這いこんだ。それを見た男は、腰をぬかさんばかりに驚いて、集めたコキバを捨てて山を駆けおり、家にとび込み入口の戸をしっかり締めてぶるぶるふるえていた。それから垣生では、いっそう山の神の祭りの日には山に入ったらろくなことがないといって、入らないようにした。

20 苫立とも次郎の話

垣生の北の方、今灯台のあるあたりの山に、とってもものしりでその上本も読めるタヌキがおった。町地域の人(今の垣生六丁目あたり)は苫立とも次郎と呼んでいた。けれどタヌキがものしりで本も読めるなど嘘だ、と信じない人も少しはいた。いや本当だと信じる人もいて、口げんかになり、それではたしかめようはないかということになって、三人の男がたしかめることになった。

 三人の男は「とも次郎」がよく出るという小屋へ夜恐る恐る行って待ったが、とも次郎がその夜は現れなかった。次の夜も行ったが現れない。

「これは三人もいるから来ないのだ。だれかひとりで行っては。」ということになり、次の夜三人のうち一人が小屋のそばに行った。半分壊れた小屋の前に座っていると、夜半すぎ大きな化け物が出て来た。座っていた男はびっくりして腰をぬかしてぶるぶるふるえていた。町地域では見に行った男の帰りがあまり遅いので、いあわせた四、五人で例の小屋の前に行ってみると、腰をぬかしてふるえている男をみつけ連れて帰って、話をくわしく聞いた。そして明神さんにお供えをしておがんだ。その話を聞いた町のものずきな藤太郎さんは、

「そんなことあるか。こちゃ (自分と言うこと)見て来てやる。」と立ちあがった。「やめとけ、命がのうなるぞ。」といあわせた者が止めたが、それをふり切って出かけた。そして「とも次郎」が出るという例の半分壊れた小屋の前に座っていた。しばらく時がたって小屋で「ごそ、ごそ」と音がした。藤太郎おっさんは、「おのれ出て来やがれ。」といいながら小屋に火をつけて、逃がさないように小屋の戸をしっかりしめて待ちかまえていた。小屋に火がまわり、火の手があがると共に、「パン、パン」と大きな音がして小屋が焼けてしまった。 それから「とも次郎」の姿を見たものはいなくなった。

(昭和五五年七月九日 垣生の昔を語る会で 故岡 彦書氏が話した話の要約)

21 タヌキの頭にカラスが巣をつくった話

 昔、垣生の新田(今の長岩町)の又野川の西100メートル「くの坪の東の方」の田の中に十平方メートルくらいの小高いところがあった。その小高いところに、一本のマツの木が生えていて、そのマツの木のてっぺんにカラスが巣をつくっていた。山端地区の人が、「田の木のてっぺん(タヌキの頭)にカラスが巣をかけた。」といって珍しがっていた。そして他地区の人に、「山端にタヌキの頭にカラスが巣をかけている(山端にタノキの頭にカラスが巣をかけている)。」といって賭けをして勝ったものだと。

    (今から70年程前、年よりから聞いた話、岡部某よりきいた)

22 「八本松」のいわれ

 旧沢津地区、今は松の木町の海岸に「八本松」という地名がある。大防波堤の西北端より約100メートルあまり東寄り付近である。今もその名残りを止めている。この地名の起こりは古来この付近一帯に八本の古松があったので斯く呼んだものと思われる。

 この話は八本のマツにちなんだ悲恋物語である。今から少なくとも200年前の話、このあたりのある村里に九五郎という青年の古姓がおった。彼の家は付近では屈指の大家であった。しかし、九五郎は身持ちが悪く、紅灯の巷への出入り常ならず、当地での散財ではあきたらず、とうとう、その豪遊が京の都の色里にまで及んだ。そのあげくのはて、京女の一人の美妓とねんごろになり、その交情が深まっていった。その後九五郎はいったん帰郷したが、そのあとを追って女はやって来た。その頃彼は、今までの不行跡と出費のため、父兄や親戚のきびしい監視下におかれていた。一方女はきびしくもむざんな待遇をうけ、九五郎が変心したものと思い深く彼をうらみついに自らの不運をかこちながら入水した。そんなことがあってからは、そのあたり一帯に夜ごと青白い鬼火が点減した。それを見た里人たちは、京女の怨霊のたたりとしていっせいに恐怖した。ために、里人相寄り京女の霊をねんごろにとむらい小社を建て「京婦神社」としてお祭りして付近に八本のマツを植えたという。

その後、その八本のマツは大樹となり、そのあたり一帯を「八本松」というようになったという。もちろんその後は何の怪も起こらなかったということである。                   (浮島公民館)

23 垣生塩の輸送について

 私たちの住んでいる浮島は、垣生村から分家新宅してきたのが始まりで、生活習俗は今でも垣生と同じ様式を踏襲してきている。垣生では、前浜と弁財天で昭和初期まで天日製塩(入浜式)が行われており、その淵源は多喜浜塩田よりはるかに古く江戸初期以前にさかのぼるといわれるが判然としない。「西条誌」の「垣生村」の項で「塩」について次のように記されている。「塩やく家二十軒あり、南北二ケ所に分る、北を弁財天浜と言う九軒あり、南を前浜と言い十一軒あり…。当所の塩多くは産せざれ共性味よきを以て昔は芸州広島にてこれを用ゆ。然れども其足らざるを以て今は讃岐より積廻す、これを讃岐垣生と称ふ当所より行は止たり、当所より今は大州辺へ積む」とある。即ち、垣生の塩は広島へ積送されていたが、量的に不足するため讃岐の塩を買い足して讃岐垣生の名で積み出していたが、やがて垣生塩は売れなくなり大洲辺へ積み出していたというのである。そしてこの塩の海上輸送の記録が愛知県知多半島の「野間町史」に次のとうり記されている。「伊勢大湊町役場所蔵文書に見える永禄年間(1558−1569)の古日記写しによると当時すでに宮(熱田)を始め常滑・野間師崎等の諸港の船がたえず大湊に集まっていたことが知れる。同港を経て西四国地方に廻航する船も少なくなかったと考えられる・・・・・野間の回船は始めは「塩」積載せるものではなく、主として大阪方面に商品を積んで往復したようである・・・野間の廻船も始めは大阪通いをしていたというから、上方に廻船した序(つい)に十州地方の塩移送の有利であることに着目し何時しか積載して各地に移送する様になったらしく、その起源は天明年間(1781−1788)のことではなかったかと云われている…。即ち野間船が西四国地方へ廻船され、大阪通いの商品を主として輸送していたが、塩移送の有利性に目をつけいつしか各地に塩を運んだというのである。

 この記録から考えると、江戸時代当地方の産業生活構造は、この野間船による塩輸送を縁として、大阪方面、広島方面、讃岐・大洲はもちろん、伊勢大湊、ひいては知多半島の尾張藩・西条藩ともに徳川親藩であったことなどともあわせ考えられる。なお右「野間町史」のうち「十州地方の塩移送」の「十」の字は「予州地方」の「予」を行書で書かれた古文書の誤読ではないかと美浜町教育委員会に確認したが「十州地方」にまちがいないとのことであった。

24 待合谷の伝説

 垣生山には小字名の地名が多い。通称「マチヤタニ」と呼ばれるのもその一つである。「マチヤタニ」は「待合谷」の意で、往古の垣生特に町・浮島地区の集落の発祥地である。当時は物々交換の時代で、この地方の住民はある一定の日時を定めておいて、その日になると、それぞれ自分の家で採れた果物や野菜家具・調度品などをこの地に持ち寄り、お互いに自分が欲しいものと交換しあっていた。貨幣経済の発達した現代とはちがって、へんぴな原始生活をしていた人々にとっては、この交易の場は唯一のコミュニケーションの場でもあり、種々の情報や文化の発達の根源ともなっていた。また、この地は交易だけではなく、重要な公私の相談事から若い男女のしのび逢い、その他いろいろの待ち合わせや会合の場所に使われていたと伝えられる。しかし開発の進んだ今ではその場所をしのぶよすがさえもなく、口にする人も少ない。
                    (八幡三丁目 三浦 覚氏投稿)