第1章  修行時代


【嵐の中、唐に渡る】
空海さんは三十一歳になっていました。延暦二十三(八〇四)年、かねての希望どおりに空海さんは垣武天白言より入唐留学するようにとの勅命受けました。この時の遣唐使船は四隻からなっており、空海さんは大使の藤原葛野麻呂の第一船に来ることになったのです。第二船には副使の石川道益と還学生の最澄が来っていました。四隻の船団は、五月十二日に摂津国(大阪府)難波津を出航しました。七月六日には肥前国で長崎児)松浦郡田浦を出帆し、大陸に向かって大海原にでたのです。空海さんは宇佐八幡宮(現在の大分県宇佐市)や豊前賀春神社(現在の福岡田川郡香原町)などに参拝し、白檀薬師像を自ら刻んで航路の平安を祈り、また御自分の姿を措いて御母上に預けたとも伝えられています。
当時の航海はそれほど危険に満ちたものでした。船はその頃としては大きなものでした。陸地は東の彼方にどんどん遠ざかり、小さな島のようになり、その島も波にのまれて見えなくなりました。西はいってもいっても波ばかりで、故郷からいよいよ遠ざかったことが実感されたものでした。出帆して間もなく、船団は暴風の中にはいっていきました。大風が吹いて波は高く低く荒れ騒ぎ、雨は右からも左からも激しく降りかかり、船は転覆しそうになったのです。四隻はちりぢりとなり、それぞれが大陸をめざすことになりました。生きて再び帰ることはできないかもしれないと遣唐便船に来る人は悲愴な覚悟を決め、遣唐使に任命されて逃亡した官人もありました。しかし、真理深求のため命など惜しまず入唐求法しようという空海さんの心には、荒れ騒ぐ波も希望の海と見えていたことでしょう。外の風景はすべて、心の中の写しなのです。波風がおさまるよう、全員が神仏に懸命に祈願しました。

【子供の頃】

波は雲のようにどこまでも広がり、あるいはかすんで海はつきないようにも思えたものですが、帆に風を受け、空にかかる月を迎えているうちに、第一船はだんだんと進んで三十四日後に岸辺に着きました。そこは福州長渓県赤岸鎮というところでした。三千里の海路を越えた入唐の船は、揚州あるいは蘇州に着くのが普通でしたが、七百里も余計に海を走ってしまったのです。それでもなんとか大陸に着きました。第二船は予定どおり無事でしたが、第三船と第四船は行方不明となり消えてしまいました。難破してしまったのでしょう。遣唐大使藤原葛野麻呂はさっそく入国手続きをしようとしましたが、外国船は揚州か蘇州に入港すべきと決められ、こんな南方までくることがなかったので簡単にはいきませんでした。しかも福州の長官の柳冕が病気で辞職しており、新しい長官が着任するまで五十余日間も待機しなければなりませんでした。日本からの公式の使者であることが信用されず、ただの漂流者ではないかと疑われていたのです。大使も船員も陸上に宿舎をつくることさえ許可になりませんでした。
新しい長官の閻済美がやってきて、藤原葛野麻呂は三度も書状を提出しましたが、相変わらず取り合ってもらえません。船員は船からでることも許可にならず、罪人なみの扱いでした。それから船は封印され、船員は湿った砂の上に坐らされ、あわれみをかけてももらえませんでした。万策つきた大使は、すぐれた文章を読めば長官の気持ちも変わるのではないかと考え、空海さんに書状を書いてくれるようにと依頼しました。空海さんが心を込めて書いた書状を見て、長官は一行が日本からの正式な遣唐使だということを認め、船の接岸を許可しました。それから長い旅路をいたわったということです

四天王の守護

大唐国の都の長安(現在の西安)にはいりたいという願書を空海さんが書き、福州の長官に渡しました。長官はその書状を長安に送ったのです。その処置についての指示が長安からくる間、州府からは食糧が与えられ、十三戸の家をつくり、四人の召使いが送られてきました。日本の遣唐使と福州府との間には、ようやく友好な関係が結ばれました。長官自らが遣唐使の一行をもてなすようになり、十三戸の家のまわりには外国からきた珍しい客を一目見ようと、大勢の人が集まってきました。まわりの人たちは友好的で、遣唐使の人々はようやく安心したのでした。五十八日後に長安から遣唐使の一行をねぎらう存問勅使が到着し、十一月三日に福州を出発したのです。長安までは七千五百里あり、星のあるうちに歩きはじめ、星がでてから宿にはいる有様でした。急ぎに急いで進んでも、三つの高い山を越え、五つの大河を渡って、四十九日かかりました。遣唐使の一行は二十三人で、ほかの人は船を明州に廻航して、つぎの年に大使が帰国するのを待ちました。十二月二十一日に上都長楽駅に到着すると、長安からは二十三頭の馬を引いて迎えにきました。大使には金銀などの七珍の鞍を置く馬が、副使には飾りをつけた鞍を置く馬が用意されました。長安にはいると、一行を見ようとする見物人が列をなし、それはたいそうな賑わいぶりでした。すでに長安には判官の菅原清公をはじめ第二船に乗っていた人々が到着していて、みんな抱きあって再会を喜んだものでした。最澄は一行と別れて天台山国清寺に向かったので、中国では空海さんとは会うことはありませんでした。

十二月二十三日には、一行は長安城の官舎の宣陽坊に落ち着くことになったのです。

身を捨てる
 
唐の宮中には三間の壁があり、そこに晋の王義之の書があったのですが、歳月がたって風化したため、二間の壁を修理しました。ところがそこに書をしたためる人は、おそれ多くて誰もありませんでした。唐帝は適任者を探しました。日本の僧に書をかくようにと勅令をだし、空海さんが筆をとることになったのです。空海さんは右手と左手に一本ずつ筆を持ち、右足と左足の指に一本ずつ筆をはさみ、口に一本の筆をくわえ、五箇所に五行の書を同時に書いたといいます。もう一間では、墨を口にいれて吹きつけると、壁一面に樹という字が現れたとされています。唐帝以下その場にいた人たちはみんな驚いてしまいました。そこで唐帝は、空海さんに五筆和尚という名を賜った、ということです。

五筆とは、五つの書体に巧みであったからともいわれています。また後に嵯峨天皇が空海さんの書を御筆としてたいへん貴び、世間一般でも空海さんの書を御筆と呼んだところから、五筆となったという説もあります。空海さんは唐筆の製法を学び、製墨法を伝え、書道の発展にたいそうつくされました。五筆和尚の名を賜った唐帝は、空海さんにこの国にとどまるようにと願いました。空海さんはこのように返事をしました。「わたしが自分の身命もかえりみず、苦難をものともせずに海を渡ったのは、正しい仏法を伝えて、日本という辺境に住む人々を救うためです。わたしの伝える仏法が、日本では必要なのです」唐帝ももののわかった人で、こう返事をしました。「あなたのおっしゃることは道理にかなっています。あなたのことをお引きとめすることはできますまい」唐帝は菩提樹の実の念珠を空海さんに贈りました。この念珠は今も東寺に寺宝として伝わっているのです。

学問のはじめ

ある時、空海さんは長安城を流れる川のほとりを散歩していました。その流水のほとりに、そのあたりにいる粗末な身なりの童子がいて、空海さんの姿を見るなり近づいてきました。「あなたが日本からきた、名高い五筆和尚ですか」「そうも呼ばれています」空海さんは謙虚に言葉を返します。童子はこんなことをいったのです。「本当にあなたが五筆和尚なら、虚空に字を書くことができますか」空海さんが空中にさらさらと筆を動かしますと、文字がいつまでも浮かんでいます。「わたしも書いてみます」こういって童子も同じように筆を動かすと、同じように文字が浮かぶのです。「和尚さん、今度は流れる水に字を書いてください」童子にいわれ、空海さんは水面に流水を讃える詩を書きました。文字は乱れることなく流れさっていき、童子は微笑んですっかり感心した様子でこういいました。「おもしろいですね。わたしもやってみましょう」童子は流水の上に「龍」という文字を見事に書き上げました。文字は水面に浮かび、流れていきません。でもよく見ると、その字は小さな点がひとつ足りないのです。空海さんがそのことをいうと、童子はこういいます。

「忘れました。和尚さんがうってください」空海さんが点をうつと、文字は本物の竜となり、稲光と黒雲とをだして天に昇っていきました。あまりにも不思議なことに、空海さんが尋ねました。「あなたはどなたなのですか」「わたしは五髻童子ともうすものです」こういうなり、童子は消えてしまったのです。きっと文殊菩薩が空海さんの書をその目で確かめたくて、現れたに違いありません。


仏教にひかれる

 

空海さんは師を求めて長安城内を歩きまわり、顕教と密教の高僧に会って仏法の奥義を究めようとしました。長安の醴泉寺では天竺からきた般若や牟尼室利と会い、梵語やら瑜伽(行者の身口意の働きが仏のそれと一致すること) やら哲学やら、さまざま教えを受けました。般若は竜智のもとで瑜伽の奥義を究めた人です。牟尼室利は一万人もの学僧がいるナーランダー寺の頂点にいる学僧でした。般若が空海さんにこんなふうにいったとのことです。「わたしは少年の頃より仏道を志し、法を伝えることを誓ってきましたが、東の国に緑がなく、日本にいけないのが残念です。『華厳経』 『六波羅蜜経』など新翻訳経を、あなたが日本に持ち帰り、広く供養していただきたい。そうすればわたしも東のほうに仏縁が結べるということです」空海さんは寝食も忘れて勉学に励み、写経に没頭しました。学んだのは、仏法についてだけではありません。医学、工学、論理学、文法学、詩文などありとあらゆる学問をしたので、寝る間も惜しむほどの毎日だったでしょう。このように長安での日々は充実しきっていました。大唐国はもちろん日本よりも天竺により近い距離のところに位置しています。いつしか空海さんは天竺の霊鷲山に登り、お釈迦さまの本当の姿にお会いしたいものだと考えるようになりました。そんなある日のこと、一人の童子が空海さんの前に姿を現し、どうぞ霊鷲山にお参りくださいともうしました。もしかすると空海さんの夢の中の話かもしれません。どこからともなく白い馬が駆けてきました。飾り立てた鞍にまたがった童子は、うしろに乗るようにと空海さんにいったのです。空海さんが来ると、白い馬は飛ぶように走りはじめ、たちまちにして沙漠を越えました。

【霊鷲山でお釈迦様に会う】

 翌日には大きな青い羊が待っていて、童子は前のように鞍を置くと、空海さんをうしろに乗せて駆けだしました。こうしてたちまちのうちに険しい峰を越えたのです。その次に車が待っていて、空海さん一人が乗ると、夜叉神がこれを押しました。こうして空海さんは天竺国の霊鷲山の麓にやってきたのです。「あなたはどちらの人ですか。何を求めて、どこにいこうとしているのですか」その時、白い髭の老人が一人でてきて、空海さんに問いました。「私は中国の長安からまいりまして、これからお釈迦さまにお目にかかるため霊鷺山にお参りするのです」空海さんがこう返事すると、老人はいいました。「あなたはきっと仏とお会いになるでしょう。ただし、仏滅後に多くの歳月がたっているので、たやすくはありません」霊鷲山に向かって、空海さんは歩きだしました。

香りのよい雲が谷に満ちていて、花々が咲き、ここで修行したいと思うような心楽しくなる場所でした。そこにお釈迦さまが、左に観音菩薩を、右に虚空蔵菩薩をしたがえ、八万の菩薩と、一万二千の声聞に向かって説法をされていました。お釈迦さまは空海さんにこうおっしゃったのです。「あなたは多くの功徳を積んだから、こうしてわたしと会うことができたのだよ。あなたは仏のさとりの秘密の教えを学び、正しい教えを広め、遥かに先の時代、弥勒がこの世に出現する時まで、人々を救うのだよ」お釈迦さまにお目にかかることのできた空海さんはたいへん喜び、右まわりに回って礼拝し合掌しました。それからチベットの峻険な峰を越え、西域の熱砂を渡って、長安の西明寺に帰りました。全部で七日七晩かかりましたが、空海さんはまったく空腹にもならなかったといいます。空海さんはお釈迦さまに会ってから、ますます修行に励みました。


明星が口からはいる
 
唐の貞元二十一(廷暦二十四、八〇五)年二月十一日、大使藤原葛野麻呂は帰国し、空海さんはかつて留学中の永忠が滞在していた西明寺に住することになりました。空海さんは音竜寺の恵果和尚の名を聞き、訪ねていきました。恵果和尚は天竺からきた大興善寺の不空三蔵の高弟です。大唐国の代宗、徳宗、順宗の三皇帝は恵果和尚の灌頂を受け、密教の師としました。恵果和尚は空海さんの顔を見るなり、にっこり微笑み、最初から知っている様子でこういいました。「あなたのことをずっと待っておりましたよ。ようやくお会いすることができましたね。法を伝えるのに、これまでふさわしい弟子がありません。わたしの命はもうわずかしかありません。どうかただちに香と花とを準備して、灌頂壇にはいってください」空海さんは西明寺に帰って支度を調えてきました。六月上旬には胎蔵法の灌頂を、七月上旬には金剛界の灌頂を受けました。両界の灌頂の時に投花をするのですが、空海さんの接げた花はどちらも大日如来の上に落ちましたので、感動した恵果和尚は遍照金剛の名をくださったのでした。八月上旬には密教を伝える先生の位の伝法大阿闍梨の灌頂を受け、青竜寺や大輿善寺の僧五百人を招いて食事を供養し、広く一般の人にも施しました。人々はみな随喜しました。恵果和尚は胎蔵金剛両部の大法、秘密の印相、大曼荼羅一百余部の金剛乗の経、不空三蔵から伝わった什宝や供養の道具などを、すべて惜しみもなく空海さんに伝授したのです。

そして、恵果和尚はこういったのです。「教えを伝える人もいなかったので、あなたがくることを頼みとしていましたが、その前に私の命が絶えることを恐れていました。これで法を伝授することも終わりました。あなたは一日も早く国に帰り、密教を天下に広め、人々の幸福を増してください」


魔物を退ける

恵果和尚の兄弟弟子順暁阿闍梨の弟子に珍賀という人がありました。日本からきた若い空海さんに、恵果和尚が惜しむことなく密教の正統を伝授したことに、恵果和尚の弟子たちの間から異論が湧いてきたのでした。珍賀にしても、古くからの弟子である自分がないがしろにされたようで、おもしろくなかったのでしょう。なにしろすべての密教を、ひとつの瓶の口から他の瓶へ水を移すように伝授されたのですから。珍賀にしても考えれば考えるほど納得がいかず、恵果和尚に再三にわたってもうしあげました。

「日本からきた若僧が、たとえすぐれた人物であるとはいっても、はじめから和尚の門弟であるわけではございません。空海に諸種の経典を学ばせることに異論はありませんが、あくまで顕教を教えるべきです。正統の密教の受法者とするのは、いかがなものでございましょうか」何度も珍賀は和尚に忠告しましたが、ある夜夢を見ました。その夢の中に四天王が現れ、さんざんに珍賀を責め立てるのです。自分の非を知った珍賀は、朝起きるなり急いで空海さんのところにいき、五体投地をし、三度も礼拝して、泣きながらその罪を謝ったといいます。「あなたの受法の邪魔をする私は、なんと愚かだったのでしょう。わたしは夢の中で四天王に調伏されました。これからは心を改め、あなたを密教の伝法者として尊敢いたします」密教の秘法は師が弟子たちの中から、人物を見きわめて最もすぐれた器量のものを正嫡とし、代々祖師から受け継いだものをすべて譲り渡すのです。恵果和尚の弟子の中では、空海さんが最もふさわしい人物だったのでしょう。しかし、そのことを認めることができず、醜悪な心を見せてしまうのも、また人間なのです。


お釈迦様のお姿

 恵果和尚は自分の死が近いことを知っていました。そこで和尚は空海さんをそばに呼んで、歴代の祖師から受け継いできた八種の秘法を授けられました。これらは恵果和尚の正嫡であることを誠すものです。もともとは金剛智三蔵が南天竺(南インド)から請来したもので、不空三蔵、恵果和尚、空海さんと伝えられてきたものです。その中には、仏舎利八十粒があり、金色の舎利が一粒まじっていました。白檀仏菩薩、大曼荼羅、金剛界三昧耶曼荼羅、金剛五鈷杵などの密教法具がありました。このうちでも健陀穀子袈裟は祖師から伝えられた、とくに貴重なもので、すなわち伝法のしるしであり、すべての人が崇拝する力のあるものです。

あらゆる法具の中で最も大切なものであるにもかかわらず、恵果和尚はこれを唐の国にとどめおかず、異国から渡ってきた留学僧の空海さんにお渡しになったということは、なんとも尊い他の道です。恵果和尚は形のあるものもないものすべて空海さんにお渡しなさり、愛しそうにこうおっしゃいました。「わたしの師の不空は、ある日わたしにお前こそが密教のすべての教えを受け継ぐものだとおっしゃったのだ。胎蔵法、金剛界の両部の秘法、誰にも伝えていない印相の秘法、形のあるものないものすべてを伝授してくださった。この御恩をお返しするには、わたしの知っているもの持っているものすべてを、師がわたしにしてくれたように、わたしはお前に伝授した。このことがすむのと、わたしの命の火が消えるのと、どちらが早いかと案じておった。師の恩を返すことができて、わたしは心から安堵しておる」恵果和尚は穏やかな表情を空海さんに向けていうのでした。密教を世に広めて、人々を幸福にするため、日本に帰ろうと、空海さんは思うのでした。これが師の恩に報いる道なのです。


天魔を降す

 唐の永貞元(延暦二十四、八〇五)年十二月十五日、六十歳の恵果和尚は蘭の花をいれた湯にはいって垢を落とし、手に毘盧遮那仏の智拳印を結び、北枕で右脇を下にして横たわり、遺言の言葉をおっしゃいました。


「金剛界、大悲胎蔵の両部の大法は、大日如来が秘蔵する成仏の道である。この大法があまねく世に広まり、人々を救うことをわたしは願う。今、日本国沙門空海は、胎蔵・金剛の両部、秘奥壇の儀軌、印契、漢文の経文、梵文の儀軌すべてをいささかの間違いもなく伝授された。わたしの教えは、ひとつの瓶の口から他の瓶へ水移すように、すべてそっくり空海に移された。日が出れば、月は没する。油がつきれば、灯火も滅びる。これは物事の道理である。菩薩であっても、永久にこの世に在るということはない。如来も入滅される。わたしも真の世界に帰ろう」こうして恵果和尚は静かに入滅されました。

唐帝から天下万民まですべての人が悲嘆にくれ、天下護持の力が消えたことを恐れました。翌元和元(廷暦二十五、八〇六)年正月十六日、恵果和尚は城東の竜原に葬られました。
聖俗千人の弟子をはじめ何万人もが集まり、悲しみは天をも動かすほどでした。

 

空海さんは師を慕う心をおさえきれず、石碑を建て、長文の文字を刻みました。そこには恵果和尚の徳が記されています。「日照りがつづいて草木が枯れると、竜神を招いて雨を降らせました。商羊という烏が舞って洪水になり堤防を破ると、金翅鳥(経典中にみえる架空の大烏)を飛ばして晴天にしました。皇帝や皇后が帰依し、財物が事で運ばれ田園が寄進されると、曼荼羅をつくり寺を建立し、貧しい人を救うためにその財物をもちいました。愚人を導くのには法をもってしました。財物は蓄積せず、人に仏法を教えることは惜しみませんでした。誰でも和尚のところにいく時は心が空虚でしたが、帰りは充実していました……」と。


『大日経』に出会う

師が入滅されたその夜、空海さんの悲しみはあまりにも深いのでした。空海さんは道場にいき、一人呆然として師を追慕していました。すると恵果和尚はまるで生きているかのように空海さんの目の前に現れ、このように語ったのです。「わたしとお前の遠い昔の探い約束を、お前はまだ知らないのか。過去において何度も生まれ変わり、わたしたちはともに誓願し、密教を広めた。ここあそこで師となり弟子となったのは、一度や二度ではなかった。そのゆえにわたしはあなたにしきりにすすめて、遠い日本から中国にきてもらい、わたしの深奥な密教を授けたのである。お前の受法はここで終わるし、わたしの願いはかなえられた。お前は西にきてわたしの弟子になったのだから、今度はわたしは東にいってお前の弟子になろう。今度はわたしは日本に生まれよう。お前がいつまでもこの国にいないように、わたしはお前より先にこの世を去ろう」師恵果和尚との因縁の探さについて、空海さんは自ら石碑に恵果碑文として刻んだのです。碑文は伝わっているのですが、石碑そのものはその後の度重なる戦乱によってなくなってしまいました。碑文は相当な長文ですから、石碑も大きなものだったはずです。こうして師から弟子への約束事という形式があったからこそ、法は相承してきたのです。禅宗は馬鳴、竜樹と伝わってきて、密教つまり真言は、竜猛、竜智と相承されてきたのです。中国では金剛智三蔵不空三蔵が出現し、後には恵果、空海として現れたのです。こうして天竺中国、日本では祖師となっているのですが、生々世々の流れのうちに、ある時には師となり、ある時には弟子となり、またそれらが入れ替わるのです。なぜそうなるかといえば、みなおたがいに昔の誓願や誓約があるからで、その誓願の力によって法は相承されていくのです。