第1章  修行時代


弘法(こうぼう)大師(だいし)として今もたくさんの人から尊敬と信仰を集めている空海(くうかい)さんは、光仁(こうにん)天皇の御代(みよ)に、現在の四国の香川県、讃岐国多度郡(たどのこおり)屏風(びょうぶ)ケ浦(がうら)でお生まれになりました。宝亀(ほうき)五(七七四)年、後世に奈良時代と呼ばれた頃のことです。父は佐伯直田(さえきのあたいだ)(ぎみ)ともうされます。その昔、大伴(おおともの)武日(たけしひの)(みこと)という御方が、(けい)(こう)天皇の御代(みよ)に東征をされた日本(やまと)武尊(たけるのみこと)につき従がい、武彦(たけひこの)(みこと)とならび左右将軍になり、大きな武勲をたてられ、讃岐国の地を拝領されたと伝えられています。その流れを汲む代々の子孫が、讃岐国多度郡(たどのこおり)の郡司をしてこられたという名家です。また伝えるところによりますと大伴(おおともの)武日命に先立つ遥かな昔、天照大神が世をはかなんで天の岩戸をお閉めになり、世の中は太陽が隠れて真っ暗になったことがありました。その時 天津児(あまつこ)屋根(やねの)(みこと)が計略を立ててまわりで楽しそうに大宴会をし、天照大神が不思議に思って岩戸をほんのわずか開かれました。その拍子に二柱の神が岩戸を大きく開かれました。讃岐の佐伯氏はその一方の神の子孫であるとも伝えられています。人の記憶も定かではないあまりにも遠い時代のことで、さまざまな伝承はあるのですがよくわかってはいません。母は阿刀(あと)氏の人です。ある夜、天竺(現在のインドの古称)から聖人が飛んできて懐中にはいる夢を見て、懐妊されたと伝承されています。空海(くうかい)さんは十二か月間母のおなかの中におられ、合掌されてこの世に誕生されたとのことです。佐伯直田(さえきのあたいだ)公の三男としてこの世にお生まれになった空海(くうかい)さんには、真魚(まお)という名がつけられました。いつの時代もそうなのですが、新しく生まれた子は両親にとつては希望の星です。のちに弘法(こうぼう)大師となる真魚(まお)は、たくさんの人にとってこの世の希望の星となったのです。

【子供の頃】

父母が真魚(まお)をたいそう慈しんで育てたのはいうまでもありません。母が天竺(てんじく)の聖人の夢の話をいつも聞かせていたのも、幼い真魚(まお)にとって探い影響があったでしょう。五歳か六歳の頃真魚(まお)にはいつも見る夢がありました。真魚(まお)は八つの花びらのある蓮の花に坐り、仏さまたちと語らっているのです。それはとても楽しい時間なのでした。あまりにも楽しいために、真魚(まお)はその夢のことを誰にも話しませんでした。父も母も真魚(まお)のことがわが子ながらあまりにも貴く思われて、貴物(とうともの)という名前さえつけたのでした。この子は将来どんな人物になるかと、両親の期待はふくらむばかりです。俗ならば都にでて天下国家を治める人物、聖ならば聖人になるのが、いつの時代でも最も貴い生き方とされています。佐伯氏は名家といっても、やはり地方の名家ですから、都にでても出世はある程度までしか望めません。両親はそのことをよく知っていましたから、聡明な真魚(まお)は仏門にいれたいものだと考えていました。空海(くうかい)さんがまだまだ小さい頃のことです。両親の考え方に、空海(くうかい)さんももちろん異存はありません。空海(くうかい)さんは姿形こそまだ子供でしたが、鶏を追ったり竹馬に乗ったりと、普通の子がされる遊びはされませんでした。それでももちろん、ほかの子供たちと遊ばないわけではありません。空海(くうかい)さんが好んでした遊びは、粘土をこねて仏像をつくることでした。竹や(かや)をそのへんから刈り集めてきては、小さな草の庵をつくり、そこに粘土の仏像を安置しました。ごく小さい頃より両親にいい開かされてきた影響が強かったのでしょうが、空海(くうかい)さんは仏の道を歩こうと決めていました。その思いが深かったため、粘土をいじっていても、指の動きがつい仏像をつくってしまったのでしょう。

四天王の守護

 普通の人には見えないことも、しかるべき人にはよく見えるものです。ある時、都からたくさんの人が讃岐国にやってきて、子供たちが遊んでいるところを通りかかったのです。その子供たちの一人に四天王がつき従い、天蓋(てんがい)をささげているのです。不思議な光(けい)でした。四天王は、四大天王とも、護世(ごせ)四天王ともいいます。帝釈天(たいしゃくてん)につかえ、仏法の守護をします。仏法に帰依する人々を守護する護法神で、人々の頼みとなる神々です。東方の持国天、南方の増長天(ぞうちょうてん)、西方の広目天(こうもくてん)、北方の多門天(たもんてん)で、それぞれの方角を守っています。その四天王が一人の子供につき従い、たえず四方を守っているということは、空海(くうかい)さんは仏法にとってとても大切な人物であるということを意味するのです。都からきた人は、空海(くうかい)さんに拝礼いたしました。確かに聡明(そうめい)な子であるとみんなは認めてはいたのですが、都人の態度を見て村人は改めて驚いてしまいました。都からやってきた人は、問民苦使(もんみんくし)と呼ばれる、天皇からつかわされた役人たちでした。問民苦使(もんみんくし)は地方をまわり、人々の暮らしを見てまわっていたのです。人々の苦しみの実態を知ろうと地方に派遣された問民苦使(もんみんくし)は、仏のような気持ちになって人々の声に耳を傾けようとしていたからこそ、空海(くうかい)さんを守護する四天王の姿を見ることができたのでしょう。思いもかけずありがたいものを見た問民苦使(もんみんくし)たちは、不思議の念に打たれるのでした。問民苦使(もんみんくし)が地方各地をまわったということは、それだけ民を苦しめる欲ばりな役人がいたということでしょう。民を苦しめる不平等は、天下が乱れる原因ともなります。不正を深しにいった問民苦使(もんみんくし)は、讃岐国で限りなく貴いものに出会い、ふだん腐敗したようなものばかり見ていたものですから、胸をうたれたに違いありません。

身を捨てる

 空海(くうかい)さんはこの世がどのようにして成り立っているのか、宇宙の真理とは一体何かと子供ながらいつも考え、そのことを知りたいと念じていました。もちろんその態度は生涯を通じて変わりませんでした。宇宙とは、人間とは、自分とはと問いつづけたとしても、そう簡単に答えが見つかるはずもありません。まして空海(くうかい)さんはまだ六歳か七歳にしかなっていません。自分ではどうしたらよいかわからなかったでしょう。方法がわからなくても、空海(くうかい)さんの探究の思いはますます強くなるばかりです。

「仏はいったいどちらにいらっしゃるのでしょう。どうか釈迦(しゃか)如来(にょらい)にお目にかかりたいものです」

いつもこう念じていた空海(くうかい)さんは、讃岐国(さぬきのくに)にある険しい捨身岳(しゃしんがだけ)に登りました。山頂で一心に祈り、十法の仏法僧を念じて願を立てられたのです。

「わたしは、将来は仏法を世に広め、たくさんの人を導こうと願っております。もしわたしの誓願が受け入れられるのでしたら、これから山頂より投身するわたしの命を、諸仏よ、どうかながらえさせてください。もしわたしの誓願が成就できないのでしたら、わたしは命を捨てます」

空海(くうかい)さんは虚空(こくう)に向かって力のかぎり念じると同時に、峰から谷底に向かって身を投げました。空海(くうかい)さんはそのようなことを三度もしたのです。その三度とも、どこからともなく天人が現れ、空海(くうかい)さんの身体を柔らかく受けとめたのでした。落ちれば必ず命を落とす高いところから身を投げたのに、空海(くうかい)さんはまったく怪我もしませんでした。命を捨てる覚悟で虚空(こくう)に身を投げ、自分を捨てて、きっと空海(くうかい)さんは誓願どおりに釈迦(しゃか)如来をその目で見ていたに違いありません。空海(くうかい)さんは後に身を捨てるような厳しい修行をくり返すのですが、まさにそのはじまりだったのです

学問のはじめ

 長ずるにしたがって、空海(くうかい)さんの勉学への思いはますます強くなってきました。一族の人たちの期待もいよいよ高くなってきたのです。母方の舅にあたる阿刀(あと)大足という人があり、伊予(いよ)親王(しんのう)の学士をしていました。空海(くうかい)さんはこの人のもとで文章を学んだのです。もともと聡明(そうめい)で天分にあふれた空海(くうかい)さんのことですから、その上達ぶりに阿刀(あと)大足は感心しきりで、両親にこうすすめました。「この子の才能ははかりしれないものがあります。早くから仏弟子にするよりは、もっと可能性を確かめさせてあげましょう。学問の世界は無限なのですよ。中国の歴史や政治や法律や学問を学ばせ、学芸を身につけさせてやりましょう。この子はそれらすべてを自分のものとするでしょう。その上で仏門にはいり僧侶となる道もありましょう」

廷暦(えんりゃく)七(七八八)年、十五歳の空海(くうかい)さんは舅について故郷を離れ、長岡京に上りました。しかし、大学にはいれたのは、三年後の十八歳の時です。当時大学に入学できるのは身分の高い家柄の子弟だけで、佐伯氏の地位ではそれはかなわなかったのです。空海(くうかい)さんの才能は誰が見ても明らかで、制度にかなわなくとも特別に入学が許されたのでしょう。

廷暦(えんりゃく)十(七九一)年、空海(くうかい)さんは大学の明経科(みょうぎょうか)にはいりました。岡田(おかだの)牛養(うしかい)博士に『春秋左氏伝』の講義を受け、先生の一人である直講の味酒(うまさけの)浄成(きよなり)にしたがって『毛詩(もうし)』『尚書(しょうしょ)』を講読しました。空海(くうかい)さんの勉学は寝食も惜しみ、それはすさまじいものでした。遠い昔のこともよく理解し、今の時代に必要なことも身につけ、深い思想に接し、美しい文字や文章も書くことができるようになりました。学問の才能は誰にも負けないのに、空海(くうかい)さんは自分の前に身分制度が壁のように立ちはだかっていることを強く意識しないわけにはいきませんでした。どんなに勉強しても、下級官吏くらいにしかなれないのです。


仏教にひかれる

 都で勉学にいそしんでいた空海(くうかい)さんは、心の奥底では社会の矛盾に悩んでいました。そのような時、空海(くうかい)さんは一人の沙門(しゃもん)から虚空(こくう)蔵求(ぞうぐ)聞持法(もんじのほう)を授けられ、はじめて出会った密教を、心の底に秘めることとなりました。これは大唐国(だいとうこく)から伝わった秘法でした。そうしていながら、空海(くうかい)さんは儒学などの漢籍を大学で学んでいました。一方で、どんなに勉強したところでたいして出世できないことも知っていて、俗世に対する欲望がしだいに消えていくのも感じていました。三年余も阿刀(あと)大足のもとで四書五経を習っていたのですから、頭脳(ずのう)明晰(めいせき)空海(くうかい)さんは大学での教育の内容をことごとく知ってしまい、これ以上学ぶものもないとひそかに考えていたのです。深遠なる仏教の教えに心がひかれていたのですが、大学では仏教は教えてもらうことができませんでした。そのために大学も休みがちになり、仏教の研究と修行とに集中していったのです。空海(くうかい)さんは『聾瞽指帰(ろうこしいき)』という一巻の書物を書きました。儒教、道教、仏教の三教に帰依した人がそれぞれに自説を主張し、結局仏教が最もすぐれていることを説いているのです。

「宮廷で名や権力を競い、市場で利を求めるような人生の栄華を、わたしはいとう。そのかわりに山林の風物を求める。立派な衣や肥えた馬を見れば幻のような無常を悲しみ、病人や貧乏な人を見れば前世の報いだと嘆き、人生の悲嘆はつきることがない。無常を感じるにつけ、わたしは出家をしようという気持ちになる。誰もわたしをとめることはできない」こんな意味のことを書いて、自分自身に無空(むくう)という名をつけました。現在自分が学んでいる上代(じょうだい)の俗典は目の前の現象ばかりを説き、死後にどれほどの利益があるのかとも、漢籍の学問を批判しています。この時廷暦(えんりゃく)十六(七九七)年、空海(くうかい)さんが二十四歳ではじめて書いた『聾瞽指帰(ろうこしいき)』は、後に、『三教指帰(さんごうしいき)』と改められました



出 家

 空海(くうかい)さんが出家したのは二十歳の時、廷暦(えんりゃく)十二 (七九三)年、和泉国(いずみのくに)(大阪府)の槙尾(まきのお)山寺(さんじ)においてでした。十戒と七十二の行儀を授けられ、沙弥(しゃみ)となったのです。名も教海(きょうかい)と改めました。(かい)()勤操(ごんぞう)という人物だと伝えられています。『三教指帰(さんごうしいき)』 には「ここに一人の沙門(しゃもん)あり」と書かれています。地方豪族の子として農民の悲惨を知っていた空海(くうかい)さんは、都の貴族の生活との大きな不平等を感じ、それが苦悩となっていました。国家によって認定された官僧ではなく、求道心から僧の姿をし、諸国を遍歴するものを私度僧といいます。私度僧(しどぞう)は僧としての立身出世の道のある官僧とは違い、腐敗堕落とも緑がありません。空海(くうかい)さんが出会って求聞持法を授けてくれた沙門(しゃもん)とは、求道心にあふれる私度僧(しどぞう)だったのでしょう。この仏道修行の時代、空海(くうかい)さんは四国に渡ったり、山谷を駆けめぐったり、身を捨てるような遍歴をしたようです。大自然と一体になるのが、空海(くうかい)さんの修行の道だったのです。「空海(くうかい)は少年の頃から好んで山野を歩きまわっていた。吉野から南に行くこと一日、さらに西に行くこと二日にして高野という地がある……」後に高野山を下賜(かし)されるよう乞うた上奏文(じょうそうぶん)に、この文章があります。高野山のあたりも歩いたことを(うかが)い知ることができます。

 廷暦(えんりゃく)十四(七九五)年四月九日、二十二歳の空海(くうかい)さんは東大寺の(かい)壇院において、唐の僧泰信を(かい)師に、具足(ぐそく)(かい)をお受けになりました。僧として守るべき(かい)律を授けられたのです。泰信は唐招提寺(とうしょうだいじ)に住した僧です。泰信は当代の仏教界の第一人者で、空海(くうかい)さんも将来を大いに期待されたのです。

 この時、空海(くうかい)と名を改められました。


明星が口からはいる

 「ここに一人の沙門(しゃもん)あり。余に虚空(こくう)蔵聞持の法を呈す。その経に説く、若し人、法に依ってこの真言(しんごん)一百万遍を(じゅ)ずれば、即ち一切の教法の文義(もんぎ)を暗記することを得る」『三教指帰(さんごうしいき)』の空海(くうかい)さんの言葉です。虚空(こくう)蔵菩薩求聞持法とは、記憶力を増すための荒行(あらぎょう)です。虚空(こくう)蔵菩薩の化現(けげん)の明星を迎えるため、小屋の東の壁に小窓をつくります。一尺一寸(約三十三センチ)の月輪形(かちりんぎょう)の板に御本尊を描き、五十日、七十日、百日のいずれかの間に虚空(こくう)蔵菩薩の真言(しんごん)を百万回唱えるのです。途中でやめると命を落とすとまでいわれますが、成満(じょうまん)すれば八万四千の経典をすべて(どく)(じゅ)したと同じ智慧(ちえ)が授かるとされるのです。空海(くうかい)さんは阿波国の大滝ケ岳(たいりょうがだけ)や、石鎚山などで虚空(こくう)蔵求(ぞうぐ)聞持法を修してきました。この法は東南西の開けた地、すなわち虚空(こくう)蔵菩薩の化現(けげん)である朝日、夕日、明星の光が窓からはいり、御本尊を照らすことができる地形が霊地とされたのです。ある時、空海(くうかい)さんは土佐国の室戸の崎の崖の上で、一心に虚空(こくう)蔵求(ぞうぐ)聞持法を修しておられました。海は穏やかで果てしなく広がり、空は晴れ渡っています。虚空(こくう)を蔵する菩薩の真言(しんごん)を一心に唱えていると、自分の心の中も一点の曇りもなく澄んでくるのでした。空海(くうかい)さんはこの海や空と一体になると感じ、どこまでが自分で、どこまでが海で、どこまでが空なのかよくわからなくなってきました。自分の身体が限りなく拡大していったのです。ちょうど夜明けの頃で、波の彼方に明けの明星(金星)が輝いていました。遠くにあったはずの明星は、ふと気づくと目の前にあるではありませんか。金色の星はどんどん明るさを増し、速度を上げて近づいてくると、空海(くうかい)さんの口の中に飛び込んできたのです。自分がすなわち大字宙となったのです。空海(くうかい)さんは仏と一体になったことを感じました。


魔物を退ける

「谷響きを惜しまず、明星来影(らいえい)す」明星が口の中に飛び込んできた時の様子を、空海(くうかい)さんは簡潔にこう書いています。山や谷の全体が響き渡るような大きな感動があって、黄金の星が飛んできた様子が知られます。虚空(こくう)蔵菩薩が光明によって空海(くうかい)さんを照らし、仏法のこの上ない価値を示したのです。こうして空海(くうかい)さんは密教の世界をまず実体験し、これはどういう世界なのかと知るために経典を()み、なお厳しい修行をくり返すのです。また人に教えを乞うたのですが、納得できるような回答は得られませんでした。

 

ある時、空海(くうかい)さんは土佐国の室戸の崎にありました。この景勝地に空海(くうかい)さんは寺を建立したのです。その寺を金剛頂寺(こんごうちょうじ)と呼び、空海(くうかい)さんはなお修行をつづけたのです。ところが昼といわず夜といわず天狗(てんぐ)などの魔物がやってきては、修行の邪魔をするのです。このあたりに住む魔物たちにとつては、室戸の崎が仏の国になっては困るのでしょう。さっそく空海(くうかい)さんは法力(ほうりき)により、魔物を調伏(ちょうぶく)しました。仏教がこの国に受け入れられ、諸国に国分寺が建立されたといっても、地方にいけばまだまだ仏の教えは浸透していなかったのでしょう。修行をしていても、時には邪魔をされたのではないでしょうか。天狗(てんぐ)などの魔物は、空海(くうかい)さんに敵対してくる人たちや無知の人たちのことでしょう。

 こうして空海(くうかい)さんが苦労した場所は、四国八十八箇所札所として、今も多くの人々の修行道場なのです。室戸の崎の金剛頂寺(こんごうちょうじ)も、お遍路さんの第二十六番札所となっています。お釈迦(しゃか)さまが尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想(めいそう)をしてさとりを開かれようとしていた時、さまざまな魔物が出現しては、煩悩の火をかき立てようとしたり、恐怖を植えつけようと邪魔をしましたが、お釈迦(しゃか)さまはすべて退けられたという故事に似ています。


お釈迦様のお姿

 空海(くうかい)さんは行く先で人の苦しみに出会うと、その苦しみをやわらげてきました。室戸の崎は風光(ふうこう)明媚(めいび)なところで、前には明るい大海原が広がり、背後には高い岩が峨峨(がが)としてそびえています。この海の向こうには観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)のおられる補陀落(ふだらく)浄土(じょうど)がありますが、海はひとたび風が吹くと高い波が立って荒れるのです。

 ある時、空海(くうかい)さんはこのあたりで修行に没頭していました。海は波や風が渦巻き、変化してやみません。その波や風の中から、時折毒竜やら毒蛇が現れ、人々を苦しめ、空海(くうかい)さんの修行の邪魔をするのです。空海(くうかい)さんはこれら異類のものに向かって修法(しゅほう)し、追い払いました。空海(くうかい)さんの修法(しゅほう)は、それは厳しいものでした。夏には穀物を断ち、冬は下着一枚で戸外で(ぎょう)をしました。荒行(あらぎょう)とは、自分を捨てて大自然と一体になることです。そうして限りなく仏に近づくことなのです。ある時、空海(くうかい)さんは御自分の誕生の地、讃岐国(さぬきのくに)多度郡(たどのこおり)屏風ケ浦にありました。このあたりの山は屏風を立てたような姿をしていて、また奇岩もたくさんあり、名勝とされているところです。空海(くうかい)さんがそのあたりで修(ぎょう)をしていた時のことです。峰から雲が湧き上がり、その上に釈迦(しゃか)如来がお姿をお見せになっているではありませんか。お釈迦(しゃか)さまは空海(くうかい)さんの誓願にこたえられ、お姿を現されたのです。お釈迦(しゃか)さまに励まされ、空海(くうかい)さんも御自分ではなおいっそう修(ぎょう)に励もうとお思いになったことでしょう。空海(くうかい)さんはこの峰を、我拝(がはい)師山(しさん)もしくは、浦出の岳と名づけたのでした。空海(くうかい)さんは自分が修(ぎょう)することによって、その土地に仏教を広めていったのです。はじめて本当の仙教に出会った人々の驚きが、伝説となって残っているのでしょう。


天魔を降す

 ある時、空海(くうかい)さんは伊豆国(静岡県)にありました。桂谷の修善寺で、空海(くうかい)さんは厳しい修(ぎょう)をされていました。そこに恐ろしい魔物がでました。空海(くうかい)さんは虚空(こくう)に向かって指を走らせました。魔物を退治する経である『大般若(だいはんにゃ)(ぎょう)』の魔事品(まじほん)を書いたのです。するとまったく乱れのない見事な書体の経文が、空中に現れました。空海(くうかい)さんのすぐれた筆跡が大空をおおい、魔物は二度と現れることができなくなり、それとともに人々の間に仏法が広まっていきました。こうして空海(くうかい)さんは虚空(こくう)にさえ経文を書き、仏の徳を示して、天神(てんじん)地祇(ちぎ)(国土の神)をも感応させ、魔を調伏(ちょうぶく)させるのです。人々に害を与える天魔を降し、人々も助けました。余人では理解することもできない高い境地の修(ぎょう)をしながら、そこにとどまってばかりいるわけでもなく、その徳を人々にも分かち与えてこられたのです。空海(くうかい)さんが一歩いくと、その分、仏法が広まっていきました。空海(くうかい)さんのおこないは人助けとともにありましたから、人々の信用も絶大なのでした。空海(くうかい)さんほど全的に伝説を残している人もありません。北海道松前郡(まつまえぐん)阿吽(あうん)寺は空海(くうかい)さんが開き、本尊の不動明王も刻んだと伝わっています。もちろん空海(くうかい)さんは北海道にいっているはずはありません。

 空海(くうかい)さんが旅の僧となって水を乞い、与えてくれた人へのお礼に独鈷(とっこ)錫杖(しゃくじょう)で地を突くと水が湧いてきたという話は、たくさんあります。杖を地にさすと銀杏になったり、孫に栗をとろうとする祖母のために村に栗の実をたくさんならせたり、葉を水に落とすと魚になったり、人々を救う話は数知れずです。人々が生活の中から空海(くうかい)さんを慕っています。修善寺温泉の湯は、桂川上流の岩盤を空海(くうかい)さんが独鈷(とっこ)で打ったために、加持された薬湯が湧き出したと伝えられているのです。


『大日経』に出会う

 求道の気持ちが強ければ強いほど、またひたむきに修(ぎょう)をすればするほど、仏法についての疑問は深まっていきます。仏法はそれほど深いのです。いい師がいれば若い求道僧の疑問はすぐ解いてももらえるのでしょうが、空海(くうかい)さんはまだ師に恵まれてはいません。空海(くうかい)さんは闇雲に遍歴を重ねていき、当時の仏教の中心地である祭良にいきました。だがどの寺にいっても、心に落ちる答えを得ることができませんでした。仏についての疑問なのですから、人に問うよりも、仏に祈るべきだと空海(くうかい)さんは気づいたのです。空海(くうかい)さんが求めたのは、不二の法門といわれています。この世にまたとない法門とは、自己の心を満たすに足るべき最高の理想のことであると考えましょう。不二とは唯一無二のことです。人がどのようにいおうと、空海(くうかい)さん自身が心の底から納得しなければならないのです。仏に向かって空海(くうかい)さんが一心に祈りつづけていますと、夢の中に見たこともない人が現れて、こんな意味のことを告げたのです−『大毘廬遮那経(大日経)』という尊い経典が、大和国(奈良県)高市郡の久米寺の東塔の下にある。そこに不二の法門が語られている − と。空海(くうかい)さんは久米寺にいき、東塔の中心柱の中に経典を見つけました。一心不乱に(どく)んだのですが、理解できませんでした。教えを乞おうにも、日本には疑問に答えられる人はいないのです。不二の法門を学ぶためには、唐にいかねばならないということです。空海(くうかい)さんは入唐求法への思いを固めました。久米寺の寺伝によりますと、唐の善無畏三蔵が来朝して三か月をへた時、この寺の東塔院を建立したとのことです。善無畏三蔵は天竺(てんじく)で生まれた『大日経』を、漢語に翻訳された三蔵です。東塔院の礎石に三粒の仏舎利を安置するとともに、『大日経』七巻を納めたということです。