第1章  修行時代


【嵐の中、唐に渡る】

空海さんは唐における密教の研究を完成させました。師の恵果和尚もいなくなったので、空海さんは自分の信仰する密教を日本で広める責任を感じていたのです。しかし、留学僧としてきたからには、唐の国に二十年間とどまる予定でした。二年足らずの滞在で帰国することは許されないのですが、日本から来ていた遣唐使判官高階遠成や留学生の橘逸勢らと帰朝することを皇帝憲宗に願い出て、元和元(延暦二十五 八百六)年正月に許されました。普通では二十年かかるところを、空海さんは努力して二年で成し遂げたのです。

帰国する事が決まっても、必要な書籍を集め、必要なら人に依頼して書写してもらったりしました。帰国の乗船をするため明州という港に来て、空海さんは祈願をしました。「私が習った密教を伝えるためにふさわしい場所があるなら、これから投げる三鈷杵が飛んでいき、そこにとどまるであろう。」日本の方向には紫色の雲がありました。空海さんが金色の三鈷杵を空に投げると、紫色の雲の中をどんどん飛んでいきました。その場に集まった人たちは、大変不思議に思った事でした。空海さんは高階遠成や橘逸勢らとともに、海を航海しているとき、嵐に会いました。風は強く波は高く、船は沈没するかとも思えました。空海さんは一心に祈りました。「わたしは将来必ず諸天の威光を増し、人々を救済するために、寺院を建立し、教えに従って修行を致します。どうか善神はわたしを助け、日本に帰らせてください。」空海さんの祈りが諸天に通じ、激しい風も波もぴたりとやみました。恵果和尚から伝えられた密教は、空海さんがいなくなればこの世から消滅してしまいます。空海さんの乗った船が着いたのは、博多かその近くの海岸だといわれています。

【子供の頃】

空海さんは大宰府に帰り着き、朝廷に報告のため平安京に上る高階速成に『御請来日録』を、自分の帰朝報告として託しました。その書類に空海さんは、入唐学法沙門空海と記しました。空海さんは三十三歳になっていました。唐の国から請来した品々は、経論二百十六部四百六十一巻、大悲胎蔵と金剛界の曼荼羅、仏像、伝法阿闍梨の真影、恵果和尚付嘱の道具など、それは大変な量でした。目録につけた上表文で、密教のすぐれたところを述べ、唐の皇帝をはじめ万民が敬っている教えを日本に持ち帰ることができたのも、天皇がよく天下万民を治め愛育しておられるので、経典や曼荼羅や仏像がすすんで海を渡ってきたからですと書いています。それから、予定よりも早く帰ってきたことのいいわけを、こう書いています。「わたしが短期で帰ってきたことの罪は死してもなお余りあるものです。しかしながら、この得るに困難な法をひそかに生きて持ち帰ったことは大いなる喜びです。一方では恐れ入り、一方では喜んでおります」大宰府の大監である高階遠成によって空海さんの手紙は確かに朝廷に届けられはしましたが、朝廷からはなんの連絡もありませんでした。
大宰府の観世音寺に滞在する空海のもとに正式の書状がきたのは、それから半年後のことでした。帰朝許可の問題が解決しないので、しばらくそこにとどまっておるようにとの内容でした。結局空海さんは一年近くも足止めをさせられたのでした。早く帰ってきたことが問題になったばかりでなく、空海さんが持ち帰った密教についての議論がなされていたのでしょう。空海さんは都に帰ると請来品のすべてを朝廷に提出しましたが、まもなく返されました。密教を日本に広めよという朝廷の意志がそこにはあるのでした

四天王の守護

唐に渡る前、空海さんは航海の無事を祈るために宇佐の八幡大明神や賀春大明神にお参りをしました。無事に日本に帰ってきた空海さんは、神社にお礼にいきました。賀春大明神の境内がすっかり荒れているのを見て、空海さんが加持祈祷をすると、樹木が繁ってきたと伝えられています。中国で深遠なる密教の奥義を学んできた空海さんですが、日本の古来よりの神々への信仰も忘れていず、神仏習合の思想を深めていったのです。ある時、空海さんは河内国(大阪府)にある聖徳太子の御廟(太子町)に百日間参籠しました。九十六日目になると御廟の中から『理趣経』を唱える美しい声が聞こえてきました。この声はどなたがだしているのかお示しくださいと空海さんが念じると、御廟の前に光明の輪がひとつでき、そこから声が響いてくるではありませんか。聖徳太子が空海さんに語りかけているのでした。「わたしは救世観音が人々を救うためこの世に現れた姿なのです。阿弥陀の浄土に住んでいましたが、この世の衆生を救済するため、穢れた世界にやってきたのです。わたしの母は阿弥陀如来の垂迹(如来や菩薩が衆生を救う目的で神や人間の姿でこの世に現れる)で、わたしの妻は大勢至菩薩の垂迹です。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊はそろって日本に生まれ、ここで人々を教え導くのです。聖徳太子としてのわたしが亡くなってからずいぶんの歳月がたちますが、三尊になぞらえて、三人の骨を廟の内部にならべてあるのですよ。この光の中に阿弥陀三尊の姿を現して、『法華経』や『勝鬘経』など大乗仏典を読誦しているのですよ」空海さんは阿弥陀三尊のお姿をはっきりと御覧になったといいます。日本にはじめて仏教を興隆させた聖徳太子と、空海さんとを、後世の人はどうしても結びつけたかったのでしょう。

身を捨てる
 大同4(809)年、空海さんは大政官符によって京の都の高雄山寺(神護寺のこと)にはいりました。最澄は空海さんを心から待っていました。すぐに弟子の経珍をつかわし、経典を貸してもらえないだろうかと頼みます。お互いに日本仏教を導いていこうとしていましたから、空海さんは喜んで最澄の求めに応じたのです。最澄は空海さんを必要としていました。その後もたびたび経典借用の申し出がなされ、どれもが未請来の経典で、最澄も未見のものでしたが、空海さんは惜し気もなく見せてあげたのです。まもなく空海さんと最澄の間に密教の授受がはじまります。天皇の命により弘仁2(811)年11月から、山城団の乙訓寺(現在の長岡京市今里にある) にいた空海さんのもとに、大日如来の灌頂(香水を頭項に注ぐ儀式)を受けて七日間ばかり習学させてほしいと手紙を送ります。最澄は日本の仏教界の中では空海さんの大先輩です。しかし、天台の法門にいる最澄が唐で学んできた密教は胎蔵法だけで、不完全なものでした。

空海さんの密教は胎蔵法と金剛界法をあわせた体系的なもので、最澄にすれば自分よりもすぐれていると認めざるを得ませんでした。誰が先輩で誰が後輩でというように硬直したものではなく、すぐれたものには率直に頭をさげて教えを乞うという柔較さが、仏の道です。弟子はいつしか師となり、師も学ぶことがあれば弟子となるのです。乙訓寺から高雄山寺に帰った空海さんは、弘仁3年11月15日、金剛界灌頂壇を開き、12月14日には胎蔵灌頂壇を開いて、194人に結縁灌頂を授けました。その受法弟子の中には最澄の名がありました。空海さんを密教の師とあおいでいた最澄は比叡山寺かの責任者として多忙で、その後はなかなか空海さんのところにいくことはできませんでした。そこで弟子たちを高雄山寺に派遣し、受学受法してもらうことにしました。

学問のはじめ

嵯峨天皇、橘逸勢、空海さんの三人はことに能筆であったので、平安の三筆として後世に高く評価されました。唐から帰った空海さんにことに興味を持っていた嵯峨天皇は、高雄山寺に絹張りの新しい屏風をとどけ、劉義慶の『世説新語』三巻のうちの言葉を書くようにと勅命をだします。空海さんは翌日にはもう制作をしました。ごの屏風の書によって、嵯峨天皇は空海さんを心から深く信頼するようになりました。その後空海さんは同好の士である嵯峨天皇に、自分が書の研究のため唐に滞在中手にいれた筆跡と、自ら製法を習ってきて製作させた狸毛の筆四管を献上しました。詩の交換をしたり、空海さんは乙訓寺の庭に熟していた蜜柑を献上したり、二人の心は親密でした。先代の平城天皇は空海さんより結縁灌頂を受けられました。また嵯峨天皇も受法されたと伝えられています。空海さんと最澄とのことをもう少し語っておきましょう。日本仏教の指導者として意気投合していた二人ですが、考え方の違いが少しずつ明らかになってきました。
最澄が『理趣釈経』を借用したいといってきたのですが、この経はただ読むだけでは誤解される内容があり、未灌頂のものには伝えることができないと空海さんは断りました。最澄は経典を読むだけで密教を理解しようとしていましたが、空海さんは経典に説かれる修行を行なってから読まないと誤りをおかすと考えたのです。

密教の教えとは、書を読んで体得するのではなく、師から弟子へ口から口へと伝えるものです。最澄のもとから派遣されていた泰範が、空海さんの弟子になるという事件がありました。結局これらのことがきっかけとなり、空海さんと最澄とは縁が切れてしまったのです。それ以後、二人は顔を合わせる事はありませんでした。


仏教にひかれる

 空海さんは修行する場所を求め、山谷を歩きまわっていました。唐のむ五台山の山中には修行者が多いのですが、日本では都市に金銀で飾られた寺院が櫛のようにならび仏法は興隆していても、高山深嶺にはいる僧はまだ少なかったのです。これは禅定の場所がいまだに整っていないことを意味しています。

ある時、空海さんは大和国字智郡(現在の五条市のあたり)にいました。空海さんは大小二匹の黒犬を連れた猟人に会ったのです。猟人は弓矢を持ち、筋骨は隆々として、いかにも強そうな風体でした。猟人は空海さんの姿を見てにこにこし、心に何かを思っているようでした。修行の場所を探している空海さんは、さっそく猟人に尋ねました。「あなたは岩を踏み、川を渡り、峰を乗り越え、広く山谷を歩いておられるようですが、深い岩屋や静かな霊場など、修行するのにふさわしい場所を御存じありませんか」猟人が答えます。「わたしは南山の犬飼で、犬とともに獣を追って暮らしております。わたしの所領の山地は一万町歩あります。東西の山は竜が臥すかたちをして、南北の山は虎がうずくまるかたちをし、平らな原と深い沢があって、三方に山がつづいています。東南の方向はひらけ、山中に降った雨はすべて東に落ち、集まって一本の川になります。
昼は美しい雲がたなびき、夜になれば神妙な光が流れるのです。あなたがここにきてくだされば、わたしはどんな援助もいたしましょう。わたしは山の中ばかりにいるものですから、どうも人間の世界にうといのです。でもわたしは今、菩薩にお会いしたことがわかりますよ。わたしにあなたを援助させてください。わたしに威光と幸福とをくださいますように」こういって犬を放った猟人は、高野明神すなわち狩場明神の化身だったのです。

【霊鷲山でお釈迦様に会う】

それから空海さんは紀伊国にいき、紀ノ川のほとりにいました。そこに大和国字智郡で見た猟人が連れていた二匹の犬がやってきて、空海さんを誘うのです。

空海さんがついていくと、どんどん山の中にはいっていきました。そのあたりの山の地形を見ると、東西は竜が臥すかたちをし、南北は虎がうずくまるかたちをしているではありませんか。確かに猟人がいったとおり、三方に山がつづき、平らな原と深い沢があります。川も東に流れています。高野明神が招いてくれたのだと、空海さんは知ったのでした。ごく若い頃に山谷を歩きまわり、ここにきたことがあることに、空海さんは気づきました。吉野山から南に一日、さらに西に二日歩いたところです。名を高野といいます。よくよく見ればまわりは須弥山をとりかこむ鉄囲山のような山々です。月は大地から湧き出すようにして上がり、雲は目の前で消えていきます。この高野山こそ修禅の地としてふさわしいと、空海さんは考えました。弘仁七(八一六)年六月十九日、空海さんは「沙門空海上表」と記した上奏文を朝廷に呈上しました。「……今わたしは思っております。上は国家のために、下はもろもろの修行者のために、荒れた薮を刈り平らげて修禅のための寺院をつくりたいのです。もしわたしの願いがかなうのならば、わたしはたえず勤め励んで祈願し、天皇の御恩におこたえいたします」空海さんの希望はただちにかなえられました。六月十九日に上奏文を提出し、七月八日に紀伊国司に大政官符が発せられたのです。書類を運ぶにも日数を要する当時のことですから、いかに事務処理が早くて、いかに空海さんが朝廷や人々から期待されていたかわかろうというものです。

明星が口からはいる


空海さんが高野山に登った時、山道の途中に丹生都比売神社がありました。天野というところです。丹生とは水銀のことで、いろいろな成分がまじっている金属から金をとりだすにも、仏像に金を鍍金(メッキ)するにも、水銀が必要です。水銀は貴重な鉱物で、高野山には水銀の鉱床がたくさんあるともいわれています。水銀を扱う丹生氏と空海さんは結びついていて、求法のため入唐する莫大な費用である砂金は、丹生氏からでたのだという一説もあります。狩場明神も丹生都比売命も、丹生一族がまつっていた地主神なのです。その晩、空海さんは丹生都比売神社に一泊しました。すると丹生都比売命の神託が、巫女を通してあったのです。「あなたがここにおいでくださり、わたしにはこんなに喜ばしいことはありません。その昔、わたしが人間であった時、食国皇命が一万町歩の領地をくださいました。南は南海まで、北は紀ノ川まで、東は大和の国の境界まで、西は応神山の谷までです。わたしはあなたにこの土地を供養いたします」丹生明神と、はじめに会った狩場明神とは、母子であるとも夫婦であるともいわれています。
空海さんは丹生明神と狩場明神とを、高野山の守護神と定めたのです。もともと空海さんは古来の日本の神を信仰していました。これから建設する伽藍の守護神として丹生明神と狩場明神を勧請することは、空海さんの信仰心としても当然のことです。真言密教の根本道場を高野山につくろうという気持ちが、空海さんの中で固まったのです。高野の地は高山でありながら湧水は豊富で、周辺の土地から食糧は簡単にとることができます。美しい花が咲き、甘い果実が実り、清らかな水が如く楽しいところで、しかも都の塵から離れた静かな場所なのです。


魔物を退ける

弘仁九(八一八)年十一月十六日、空海さんは弟子たちをともなって高野山に登り、翌年五月、内外の結界法を修しました。ここに伽藍を建設するため、七日七夜の大結界の法でした。天地上下、東西南北七里の内にいる悪鬼を追い払い、善の心をもって仏法を保護する、あらゆる善神鬼はここに住まいせよ、と祈ったのでした。

空海さんの最大の目的は、この他に両部曼荼羅を建立する事でした。空海さんの思想と行動には、壮大な構想力と、深遠なる哲理と、底知れぬエネルギーがあります。七里四方を結界し、さらに壇上を二重に結界しました。内八葉と外八葉と呼ばれる十六の峰が、この内にあります。空海さんは高野山に大曼荼羅を描き、ここに密教の大道場をつくろうとしたのです。常人ならひとつの峰を見るだけで精一杯なのに、空海さんは宇宙から山河全体を見ていました。この大事業にとりかかった空海さんは、密教の理想を地上に実現させようとしたのです。伽藍建設のためあたりの樹木を切り払っていると、大きな松の杖に、唐の国を出港する前に投げた三鈷杵がひっかかっているのが見えました。まさにここが密教を伝えるのにふさわしい場所ということです。のちに弟子の真然が空海さんの意を受け、中院を建設して、この三鈷杵を納めたということです。三鈷杵のかかっていた松の根元に庵室をつくりました。それが現在の御影堂ということです。空海さんとすれば伽藍の建築に専念したかったのでしょうが、伝灯大法師位や内供奉十禅師に任じられ、宮中からなかなか離れられなくなってしまいました。少僧都という高い僧位に任じられ、再三辞退してもいれられず、大僧都に昇進しました。嵯峨天皇や貴族や庶民たちの尊敬を、空海さんは一身に集めていたのでした。


お釈迦様のお姿

不便な山の中で、しかも大規模な建築であり、私寺を建てるのは困難な事業でした。寺の名は金剛峯寺となり、堂塔や坊舎はどんどん増えていきました。まず僧房と念誦堂が建てられました。三間四方の講堂が建てられ、本尊に阿閃如来が安置されました。阿閃とは「動ぜず」という意味で、不動の心をつねにもつ仏であるといわれています。空海さんは南天竺にあるという密教の塔、南天の鉄塔の建築にとりかかりました。広く人々に寄付を呼びかけ、人々の力が集まって、十六丈(約四十八メートル)もの高さの大塔が一基完成しました。あまりにも大きくて、一階の屋根は霞の中にあったし、九輪の飾りは空中の遠くにあるほどでした。大塔の内部には中尊の大日如来と、四方に宝幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)の胎蔵界五仏が安置されました。空海さんとすれば金剛峯寺の建築に専心したかったのですが、天皇が空海さんを必要としたので、高野山ばかりにいるわけにはいきませんでした。嵯峨天皇からは中務省に一室を与えられ、なるべく都にとどまるようにと要請されていたほどでした。弘仁十四(八二三)年正月には、都の羅生門の東の東寺も給預され、堂塔伽藍の造営も担当することになりました。この東寺は、廷暦十三(七九四)年の平安京への遷都後すぐに造営がはじまったのですが、三十年後の弘仁十四年頃になっても、半分もできていませんでした。そこで、一日も早い完成を空海さんにたのまれたのでした。こうしている間も天皇や貴族からさまざまな招請を受け、空海さんは多忙をきわめていました。時間を見つけて高野山にくると、空海さんは深く穀味を厭い、五穀を断って、つねに坐禅をつづけていました。やがて自分の命がつきることを感じていたのです。どんなに多忙でも、修行をおこたることはありませんでした。


天魔を降す

 空海さんが高野山で五穀断ちをしていた頃、世間では流行病が蔓延し、人々はどんどん死んでいきました。生老病死は世のならいですが、乳飲み子も若者ものたれ死んでいき、山谷には屍が重なりあい、村々は屍を喰らう鬼のすみかになりました。当時の嵯峨天皇はこれを哀れに思い、疫病をしずめるため『般若心経』を金字で書きました。空海さんは『般若心経秘鍵』一巻を書き上げ、宮中で『般若心経』の功徳について説いたのです。

天神地祓(国土の神)はこの『般若心経』をことのほか好むから、神々は必ず『般若心経』を受け入れ、功徳があるはずです、ということでした。苦しんでいる人、弱い立場の人について、空海さんは深い憐れみの気持ちを持っていました。まさに慈悲の菩薩なのです。勢力のある各氏族は一族の子供のために設備や人材をそろえた学問所をつくり、また有位のものには大学にいく特権があったのです。しかし、庶民階級の子には教育を受ける機会はありません。文化の恩恵はすべての人に与えられなければならないと、空海さんは考えていたのです。仏の目からすれば、すべての人は絶対に自由平等のはずです。天長五(八二八)年十二月、空海さんは自分の理想を実現するために、大綱言藤僚三守の敷地と建物の寄付を受けて庶民の学校である綜藝種知院を創立しました。仏教、儒教、道教の三教の調和を教授し、生徒からは揖業料はとりませんでした。商人や農民の子弟の質が劣っているのではなく、玉であっても磨かなければ石と同じで、磨かずに捨てるのは仏の心ではありません。身分社会にあって、空海さんの身分を問わず入学を許す学校の建設は、空前の壮挙でした。しかし、経済的な援助が貴族から得られず、経営は長くはつづきませんでした。

 


『大日経』に出会う

空海さんをたくさんの人が今でもしたっているのは、深遠な理論から、今そこで苦しんでいる人を救うことまで、他の理想を身をもつて究めたからです。人々が喜んでいる時も、苦しんでいる時も、いつもそばに寄り添ってくれていてくれるからです。同行二人なのです。流行病のため、都には今まさに死のうとしている人がいたるところにいて、屍がそこいらに放置され、ひどい異臭が漂っていました。元気なのは、屍を食べる犬ばかりでした。地獄がこの世に出現したかのような光景だったのです。空海さんが『般若心経』の功徳を講じますと、結願にならないうちから病気が平癒する人が続出しました。生き返る病死人がいくらでもいたのです。夜の闇の中に光が排してきて、いつの間にか日光が照っていたようなものでした。空海さんは仏法という薬を世の人々に処方したのです。仏教の本来からいうなれば、礼仏誦経も大切なのですが、済世利民という具体的に人々を救済することも重要なことです。人々に深い慈悲の心を向ける菩薩行ということです。経世家というと行基菩薩を思い浮かべます。空海さんも、経世家の足跡を全国に残していますが、万濃池の修築はそのひとつです。万濃池は空海さんの故郷の讃岐国にあります。幾度も破損し、土堤が流れた万濃池の修築をするよう太政官符が空海さんに下されたのは、弘仁十二(八二一)年五月二十七日のことでした。

空海さんは唐の国で最新の土木技術を学んできたので、人々が心から空海さんの出動を求めたのです。貴族にも庶民にも同じ態度で接する空海さんは、その人の心に添って望みにこたえることができました。現場にいって監督をした空海さんによって、たちまち万濃池は工事が完成し、一万町歩の田に水がゆき渡るようになりました。こうして空海さんは、多くの人々を幸福にするのです。

『大日経』に出会う

空海さんは高野山や大峯山で修行をつづけました。大和国の室生山も空海さんが大切にしていた霊場です。空海さんは恵果和尚から授けられた舎利と仏像を室生山に安置しました。高野山は長いこと女人禁制でしたが、室生寺は女性たちに広く信仰され、女人高野と呼ばれるようになりました。大峯山の役行者と空海さんは深い契りに結ばれていたと伝えられています。役行者はよく高野山にやってきて、その時には山全体になんともいわれぬいい香りが漂い、不思議な光が見られるということでございます。どんなに多忙であっても、空海さんはこれでいいとは思わずに厳しい修行をつづけ、深い思索をし、考えたことを著作にあらわしました。空海さんの著作は仏教の思想、僧の戒律、辞書、文芸と幅が広く、手紙や漢詩や筆墨などを含めると、人の心の中のことから宇宙全体のことまで余さずに語っていることがわかります。空海さんはどれほど学んできて、どれほど博識であったか、底が知れないほどです。
私たちにとつてはどれも難解で、どれも重要なのですが、三部書と十巻葦がことに大切だとされています。三部書は『即身成仏義』『声字実相義』 『吽字義』です。真言密教の究極の理想である即身成仏はいかにして可能であるかということが、実践として説かれています。十巻章とは、『般若心経秘鍵』 (一巻)など十巻の書物で、真言宗の根本教義が説かれているのです。このように著作があまりにも深遠な宇宙として残されている一方、弘法大師の伝説は北海道から九州までいたるところに伝わっています。
空海さんが実際に巡錫したのではなく、空海さんを慕う高野聖や庶民によって津々浦々に伝えられていったのです。学問の世界から庶民の生活まで、空海さんの宇宙は広大無辺です。


『大日経』に出会う

大和国の久米寺にいき、空海さんは善無畏三蔵の翻訳ならびに注釈をもとにして、『大日経』の講義をしました。若い時に夢のお告げによりこの久米寺の東塔にきて、『大日経』と出会い、歩くべき道を示されたことへの、空海さんのお礼だったのです。この時、久米寺には伊勢大神宮をはじめ日本国中から無数の神々が集まり、この講義をありがたく聴聞するとともに、空海さんを守護しました。空海さんは若い時の誓願をようやく果たすことができたのです。善無畏三蔵は次のように予言をしていました。『大日経』は大日如来の全体ではありますが、日本ではこの翻訳は理解されず、密教が広まるには時期が早いので、この経典は人目に触れないようにして機会を待たねばなりません。そう遠くない未来に、菩薩が現れて、この経を人々に説くでしょう。善無畏三蔵の予言は、空海さんによって見事に実現されたのです。このことを神々がこぞって祝福されたのですから、人々が喜ばないはずはありません。空海さんは人の心の暗闇の中に光を差し込ませたのです。空海さんは『十住心論』の要旨をまとめた『秘蔵宝鑰』という書物に、こう書いています。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、に死に死に死んで死の終わりに冥し」何も知らないで生きていくことは、暗闇の中をいくのと同じことです。仏教の哲理とは、人の生きるかたちをさし示すことにあるのです。空海さんは『十住心論』 の中で、性欲と食欲にのみとらわれた動物的本能の第一段階から、智慧の光明をつかみ真理と一体となる絶対的な境地まで、十の段階に分けました。密教以外の顕教は人をさとりの境地に導く薬にはなりますが、外側の塵を払うようなもので、心の中の宝蔵にはいるための鍵は密教だけが持っているとしたのです。


『大日経』に出会う

天長元(八二四)年は雨が降らず、人々はたいそう困りました。そこで淳和天皇は勅命を下し、雨乞いの修法をすることになりました。西寺に住んでいた守敏は、空海さんより上席にあるので、自分が先に修法をいたしましょうと申し出ました。そこで守敏は先に雨の祈祷を七日聞かけてしました。雨は確かに降ることは降ったものの、都をほんの少し濡らしただけで終わりました。次に空海さんが内裏の南の神泉苑で請雨経法をしたのですが、七日間さっぱり雨は降りませんでした。不思議に思った空海さんが瞑想をしてみると、守敏が呪力によって竜神たちを水瓶の中に閉じ込めていることがわかったのです。なおも空海さんが瞑想を深めると、北インドの大雪山(ヒマラヤ)の無熱地に住む善女竜王は、守敏の呪力から逃れていることがわかりました。空海さんは二日間修法を延長してもらい、真言を唱えて竜王に神泉苑にきてもらったのです。請雨経法中の池に善女竜王の黄金の姿が現れました。白い大きな蛇の頭上に小さな金色の蛇がのっていました。

空海さんとその弟子たちは善女竜王を礼拝しましたが、ほかのものたちは見ることさえできませんでした。淳和天皇はまことに喜ばれ、たくさんの供えもので竜王を供養しました。空海さんが修法をはじめるや黒い雲が湧いてきて、たちまち雨が激しく降ってきたのです。雨は三日間降りつづき、池の水も大壇まであふれ、洪水になったほどでした。空海さんは茅でつくった竜を壇上に立てて祈っていました。みんながどれほど喜んだかしれません。空海さんは善女竜王を神泉苑に招き、そこに住むようにしました。慈悲心が深く、人に害をおよぼさない竜王です。神泉苑はもとは乾臨閣といい、御所に流れる泉水の湧くところでした。この水は澄んで涼しく、慈悲に満ちた竜王が住んでいるので、心楽しいところです。


『大日経』に出会う

東寺が創建されたのは、都が平安京にうつされた延暦十三(七九四)年でした。平安京の正門である羅生門の東に東寺、西に西寺(廷暦十五年創建。現在京都市南区唐橋に跡がのこる)が建てられ、代々の天皇を壇越とする国家鎮護のための寺でした。東寺の伽藍が破損したならば、日本国中の寺院を壊しても修理をすべきとされたほどに重要な寺です。教王護国と呼ばれる東寺が空海さんに給預されたのは、弘仁十四(八二三)年一月十九日のことでした。空海さんは東寺を真言密教の根本道場としたのです。
唐より請来した仏画、経典、法具、健陀穀子袈裟などを東寺の大経蔵に納めました。同じ年の十月十日、空海さんは真言宗憎が学ぶべき、経、律、論など四百二十巻の目録を朝廷に呈上し、これによって宗僧五十人を東寺に置くことが許されたのです。この目録によって僧は学ぶことになるので、外宗の僧ははいることができません。真言宗はこの時をもって立教開宗を認められたということになります。この年に嵯峨天皇は退位され、淳和天皇が即位されます。淳和天皇の御世になった天長元(八二四)年六月十六日、空海さんは造東寺別当という役職をまかされます。それまで造東寺別当だった長恵という僧は、造西寺別当になりました。空海さんはまだ建設途中であった東寺の建築責任者になったのです。東寺は名実ともに空海さんの寺になりました。五重塔の心柱の材料を東山で伐る指揮をし、壮大なる講堂を建築したりと、空海さんは、目の回るような忙しい日々を、送っていたことでしょう。講堂の内陣には、真言密教の真髄を示す立体曼荼羅がつくられました。大日如来を中心にした金剛界五仏を中央に、金剛界五大菩薩を右に、平安京守護の五大明王を左に配しています。今日でもそのまま見ることのできる立体曼荼羅は、空海さんの宇宙を表現しているのです。

『大日経』に出会う

ある時、紀伊国の田辺で空海さんは身の丈八尺(約二メートル半)もある立派な身体をした老いた翁に会いました。神々しくも不思議雰囲気の人物でした。老翁は稲をかついでいたのです。「天竺の霊鷲山でお会いしましたね」老翁がこういいました。空海さんは、この人が神であることを一目で理解していました。霊鷲山でお釈迦さまのおられるところを教えてくれた、白い髭の老人だったのです。

老翁は空海さんに向かってこんなふうにもいいました。老翁「あなたは菩薩として都に来臨したのですね。わたしはあなたの弟子になります」空海さん「あなたは仏教を守護する誓願を立て、わたしは密教を興隆する誓願を立てました。それでこうしてまたお会いすることができました。都ではどちらかにお住まいがおありですか」老翁「八条の柴守の家に逗留しております」空海さん「九条一坊に東寺があり、わたしはそこにおって仏教を興隆させようとしております。どうか東寺にいらっしゃって守護してください。お待ちもうしあげております」後日、稲荷神は二人の婦人と二人の子をともない、稲を背負い、杉の葉を持って、東寺に参詣にきました。空海さんはたいそう喜び、稲荷神を御馳走でもてなして、未飯をふるまいました。それから空海さんは法を講じ、稲荷神に法楽をあたえました。空海さんは都の東南の景勝の地に稲荷神を案内し、七日七夜の間鎮壇をして、社を建てて稲荷山とし、大明神としてあがめたのです。「稲荷大明神、どうかここで都を、またわが仏法を守護してください。お願いいたします」稲荷神が最初に逗留された八条二階堂の柴守の家は御旅所といわれるようになりました。空海さんは稲荷大明神のために神輿をつくり、額を書いて奉納しました。


『大日経』に出会う

ある時、諸宗の学匠たちが宮中の清涼殿に集まり、各宗の精要についての議論をすることになりました。空海さんは真言密教の布教をすべく努力をしていたのですが、他の諸宗の学徒がその教えに疑問を持ち、布教を許しませんでした。それなら天皇の前で大いに論争をしたらどうかということになったのです。弘仁四(八一三)年正月十四日、新しい年の国家鎮護を祈念する『金光明最勝王経』の講讃がおこなわれた後、嵯峨天皇の御前で論議をしようということになったのです。各宗の論客が鋭い弁舌をふるったのはいうまでもありません。空海さんは真言密教の、三密加持、即身成仏などを説きました。それから大日如来の智拳印を結び、真言を唱えると、南の方がにわかに開け、顔がたちまち輝いて黄金の毘廬遮那仏となり、頭に如来の五智の宝冠が現れてきました。

眉間に白毫相の光を放ち、身体からも黄金の光が放たれたのです。天皇は玉座を離れ、諸臣も空海さんに向かって頭を下げ、諸宗の学匠たちは合掌礼拝しました。空海さんはすぐ本体に還り、衆生と仏とは同一であるという即身成仏を実証したのです。仏と衆生とは感応道交するという密教の説を、他宗と論争するまでもなく示したのでした。印契を結び、真言を唱え心を統一すれば、仏と自分とが一体となることが直感されます。癒伽の境地です。その境地にはいった至高の阿閣梨は、崇高で気品の高い、宗教的雰囲気をたたえた常人にはない美しい姿になるものです。智拳印を結んで禅定にはいった空海さんの姿はゆるぎもなく自然と一体化し、まわりの人たちは即身成仏の意味をさとったのでしょう。この時以来、嵯峨天皇をはじめたくさんの人が、空海さんの偉大さを知り、信頼を寄せることになったのです。


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空海さんが東寺を給預された時には、伽藍の計画はできていて、南大門や金堂などは建立されていました。しかし、五重塔や講堂などはまだだったのです。そこで空海さんは まず講堂を、ついで五重塔の建設にかかりましたが、在世中には完成しませんでした。講堂では空海さんの思想が多くの人にわかるように説かれています。立体曼荼羅といわれているとおり、『仁王経』の曼荼羅が彫刻され、安置されています。五仏、五大菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天が配され、国土安穏を祈願し、護国のための秘法を修し、教王護国の名のとおり天下安泰を誓願する道場なのです。お釈迦さまが教えを説かれた頃より時代が遠くなり、正しい教えが弱まって世の中は悪くなります。上に立つ人が仁を忘れ、下の人がよこしまな心になる世は、善神がこの国を見捨ててしまいます。すると七つの災難が起こります。国中の災いを取り除き、人の上に降りかかる災厄を払いたい時には、仁王経法をおこなうとよいとされています。
病気にかからなければ薬もいらないのですが、世の中に悪が満ちてくれば、不動明王を本尊とした仁王経法という薬がどうしても必要なのです。如来は明王などの忿怒尊の力によってさらに偉大なる力をこの世に現します。仁王経法を修するということは、忿怒尊に力を発揮してもらうということです。忿怒尊である明王は五色の光を放って国内を照らし、多くの徳を現出するのです。その徳によってもろもろの神が喜んで威光を増し、天竜、夜叉などが力をつくしてこの自然を守るならば、人も安楽になって心も柔和になり、どのような悪鬼もはいり込む隙間はありません。たとえば竜王が耶卸の雨を惜しみなく降らせるならば、田畑の作物は実り森の樹は繁茂し、人々は満ち足りて善神に守護され、どんな悪鬼も力を発揮することはできないのです。


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空海さんのお考えでは、仁王経法を修して国や人々を守護すると同時に、唐のように天皇の御身すなわち玉体の安穏の加持をするべきなのです。そこで空海さんは後七日御修法をおこないたいと、承和元(八三四)年十二月十九日に出願しました。そして、翌年の正月から後七日御修法を修することになったのです。宮中の中務省の勘解由使庁(官人の交代を監査する役所)を真言院とし、両部曼荼羅や五大尊像をまつり、十四人の真言僧をつれて後七日御修法を実現したのです。お釈迦さまはその人の能力に応じた教えの説き方をしましたが、顕教というのはその人にあわせて説く教えです。病人ならばその病気の原因を明らかにし、原因に応じた薬を与えなければなりません。
一方、密教は大日如来のさとりの内容であり、絶対的な薬なのです。毎年正月に七日間おこなわれる御斎会は、国家鎮護を祈願しながらただ経文を空しく読誦しその意義を聞いても、醍醐のような最上味を味わうことはできません。つまり『金光明最勝王経』を讃えるのは医学を説くようなものであって、いくら医学を説いたところで病気は泊りません。薬を飲んではじめて病気は治癒するのであって、密教はこの妙薬にあたるものなのです。だから正月の七日間、顕教は『金光明最勝王経』、密教は胎蔵法・金剛界それぞれの趣旨によって修法をすれば、如来の主旨にもかない、鎮護国家と玉体安穏が実現するというのが空海さんの主張でした。御斎会は大極殿でおこなわれてきましたが、後七日御修法は内裏の西に新たに真言院を設けておこなわれました。後七日御修法の結願は、正月十四日です。勤仕の大阿閣梨である空海さんは、恵果和尚からいただいた健陀穀子袈裟を着用し、三鈷杵を持って真言院にでむきました。空海さんは仁明天皇に香水を加持し、まわりの人々にも香水をかけ、新年を祝ったのでした。いかにも新春らしい晴れやかでさわやかな修法です。

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天長九(八三二)年十一月十二日をもって、空海さんは五穀断ちをし、座禅に明け暮れる暮らしをはじめました。都へもたびたびでていかなければなりませんでしたが、高野山のほうに多くいました。承和元(八三四)年十一月十五日に弟子たちを集め、空海さんは遺言をしたのです。「わたしは来年の三月に入定する。高野山の伽藍はまだできていない。両部曼荼羅(二つの塔)もなお未完成である。そこで後事をお前たちに託していかねばならない」
こうして空海さんは自分が人定した後、実恵、真如、真雅、真済、真紹、真然ら愛弟子たちに、高野山や東寺や神護寺を託したのでした。一人一人に何をすべきかを、ていねいにいい残していったのです。空海さんのやろうとしたことはあまりにも深く大きく、一人の人間の寿命のうちではとてもやりきることはできません。 空海さんの弟子で真の一字が冠してあるのは空海さんのもとで出家したもので、この字がないのは他宗から門下にはいったものです。真雅などに伝法灌頂を授け、密教を相承させました。高野山を完成させることにそむくならばその人は仏弟子ではないし、自分の弟子でもなく、魔のともがらであると空海さんは弟子たちにさとしました。そんな人は現世に生きてきても自分のためにもならず、他人のためにもならずに、後世では無間地獄に墜ちるでしょう。年長の人は広い心をもって多くの人を包み、若い人は年上の人に道を問いなさい。修行をおこたれば、五大明王によって罰がくだされると、空海さんは弟子たちに説きました。また空海さんは高野山での万灯万花会で、次のように誓願されています。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん」


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承和二(八三五)年三月十五日、空海さんは重ねて弟子たちを集めて、最後の言葉をのこしました。「お前たちに告げよう。お前たちはよく教えを守るのだよ。わたしが涅槃にはいるのは、二十一日寅の刻(午前四時)である。お前たちよ、嘆き悲しむな。喪服を着てはならない。間もなくわたしは世を去るが、お前たちが南部曼荼羅の御仏を信教するならば、わたしは御仏にかわってお前たちをいつも見守っている。わたしは百歳まで生きてこの世に教法を広めようと思っておったのだが、今となればお前たちをたのんですみやかに入定することにしたのだ。
わたしが入定した後、数千万の弟子があるだろう。彼らはわたしの顔を見なくとも、心あらんものはわたしの名号(遍照金剛)を聞いて恩徳の深いことを知るのだ。わたしは白きかばねの上に人のいたわりをもらおうとしているのではない。密教の寿命を守り継ぎ末法の時をへて弥勒菩薩がこの世にいでられ、竜花樹のその下での説法を聞くために入定するのである。わたしが眼を閉じた後、必ず兜卒天に往生して、弥勒菩薩の御前にまいるであろう。五十六億七千万年後、必ず弥勒菩薩のお供をしてこの世に生まれ、自分ののこした旧跡をたずねよう。この世に下らない間も、雲の間からお前たちを見守っていよう。この間修行に勤めるものは幸福を得て、仏を信仰しないものは不幸になるであろう。わが仏法がおとろえる時には、わたしは必ず僧の中にまじって教法を広めるであろう。お前たちは高野山をみんなで守っていくのだよ」このような遺言をのこした空海さんは、予言どおりの日時に結跏趺座をすると、定印を結び、すみやかに入定されました。御眼を閉じたところをもって入定の時とします。まことに生きている身体のままでございました。御年六十二歳、僧の年齢は四十一歳です。御庵室から奥院へお移しもうしあげました。


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空海さんが御入定されたという知らせは、ただちに都に届けられました。仁明天皇は勅使をつかわして弔詞をたまい、淳和上皇も弔書を送られました。ことに空海さんの示寂を悲しんだのは、嵯峨上皇でしたでしょう。あまりに深い悲しみのため、嵯峨上皇が御製の漢詩を高野山の空海さんの墓前に届けられたのは、空海さん入定の七か月近くも後の十月七日のことでした。お心が通いあっていたお二人のことですから、言葉もなかったのでしょう。しばらく前のこと、空海さんが自分の示寂がそう遠くはないことを告げますと、嵯峨上皇はいかにも悲しそうにおっしゃったとのことです。
「わたしの葬儀の導師をあなたにお願いしようと思っておりましたのに、あなたが先に入定されてしまったら、考えを変えねばならないではありませんか」すると空海さんはこうもうしあげたそうです。「そのことは、わたしのほうで考えておきますよ。御葬式はお急ぎになることはありませんからね」嵯峨上皇が崩御されたのは、承和九(八四二)年七月十五日、空海さんが入定されて七年後のことです。嵯峨上皇は空海さんとの約束を信じ、御棺を嵯峨野の木の上に置いておくように遺言されました。しばらくすると赤い衣を着た八人が空から降りてきて、御棺を担いで雲の中に登っていきました。京都の嵯峨野から南山(高野山)まで、かぐわしい五色の雲の道ができていました。八部衆は御棺を金剛峯寺の大塔のうしろに置きました。空海さんは禅定からでてこられ、実恵や真然などの弟子とともに上皇を茶毘にふして、御骨を奥院の大坂の西の峯にお納めしたと、古い記録には残っているそうです。


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高野山は空海さんによって七里四方が結界されています。七日七夜作法により結界し、悪鬼神を結界の七里外に放逐し、護法の善神鬼に結界内居住を許したのです。山の上の壇上だけをさらに結界したことは、空海さんの用意周到ぶりが示され、この高野山がいかに大切な霊地であるかがわかります。金剛峯寺には八つの峰があって、ちょうど蓮の花のようです。八つの峰には八つの谷があり、しかもこれが二重になっています。この大悲胎蔵八葉峯の中心に、金剛界十六大菩薩を表す十六丈の大塔を建て、金剛界と大悲胎蔵は不二であるとしたところに、金剛峯寺を密教の大道場としようとした空海さんの遠大なる理想が示されているのです。八葉蓮華にたとえられる高野山金剛峯寺で、中心となるのは根本大塔です。まわりの山々が内八葉と外八葉に見立てられています。高野山は一歩でも山中にはいると、曼荼羅の中に足を踏み入れたことになります。密教の深い教えを人々に少しでも理解してもらおうという、空海さんのやさしさを感じます。

結界七里の内側は地主である山王神が守り、十万の方角では、十の神々がそれぞれの方角を守ってくださいます。また空海さんによってお越しを願った日本国中の霊社百二十か所は、四方にそれぞれ三十社があり、毎日一社が壇主として、金剛峯寺の伽靴を護持してくださっています。後年のある高僧は、高野山に登った時に夢を見て、十万世界の諸仏や諸菩薩が集まって深遠なる理を説き、また大日如来の永遠の法を説くのを開いたといいます。峰は高いけれど、山上では道はゆるやかで、生死はすなわち寂静の涅槃あって、また煩悩はすなわちさとりであるということも、教えてくださるのです。この高野山の浄土は、空海さんの理想を実現したところなのです。


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御庵室で空海さんが目を閉じると世間の風習のとおりに七七日の法会をとりおこない、七日ごとに弟子たちがお顔を確かめました。空海さんはまるで生きているままのお姿や顔色を保ち、髭が伸びていたということです。そうして、五十日目に実恵、真雅、真如、真済、真紹、真然らの弟子たちが御輿を担ぎ、生きているとおりの身体を奥院に運びました。後に奥院には石壇を建て、生きているとおり入り口を狭くしてやっと人が通れるくらいにしました。その上に石の五輪塔を建て、シツタン(梵語の文字)の陀羅尼経を納めました。供養のために宝塔を建て、仏舎利を安置したのです。
それから八十年以上もたった廷喜年間に、醍醐天皇が香染めの檜皮色の衣を空海さんに贈り、観賢はその衣を持って高野山の奥院にお参りしました。観賢は十五歳で真雅の弟子となり、東寺の第九代長者、醍醐寺の座主、高野山金剛峰寺の第四代座主をつとめた人物です。観賢が奥院にいくや霧が立ち込めてきて、空海さんの生きたお姿を拝むことはできませんでした。観賢が心を込めて祈ると霧が晴れてきて、雲の間から月がでるように、空海さんがお姿を見せてくださいました。観賢は涙を流して空海さんのお姿を拝みました。空海さんの衣はぼろぼろで、風にもほどけそうになっていたので、醍醐天皇より贈られた衣に着換えていただきました。その時、観賢が連れていった弟子の石山寺の淳祐は、そばにいるのに空海さんのお姿を見ることはできませんでした。観賢は弟子の手をとり、空海さんの温かな膝にそっと触れさせました。すると淳祐の手にはよい香りがうつり、沈香や檀香などのにおいどころではありませんでした。淳祐の手から薫香は失われず、その淳祐が書写した経典類は“薫の聖教”と称されて、今日でもたっとばれています。


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伸び放題になっている空海さんの髪を、観賢は剃ってさしあげました。そうしながら、観賢は考えたのです。いくら未熟といっても修行をした淳祐が空海さんのお姿を見ることができなかったのだ。もし将来誰かが奥院の御廟にやってきてお姿を見ることができなかったといって、空海さんの入定を疑うものがでてくるかもしれない。非難があるかもしれないが、不信の輩がはいってこられないようにしたほうがよい。こう考えるに至った観賢は石垣を築いて御廟をふさぎ、人がはいることができないようにしました。
亡くなったはずの身体がまったく傷まず残っていることを、法体堅固と申します。示寂しても打ち砕かれることもなく、まるで生きているかのようなのです。これは遥か後世の五十六億七千万年後に弥勒菩薩とともに再びこの世に下生するという、空海さんの誓願によるものということでございます。空海さんの死には入定という言葉が使われますが、不死の命を得るという意味です。本来は瞑想を実践するという意味なのですが、いつでもどこでも空海さんは自分たちのすぐそばにおられるのだと考えたのです。空海さんは必ずこの世に戻ってはくるのですが、なにしろ五十六億七千万年も後のことです。そんなに長いこと待ってはいられません。この世に降りないまでも雲の間から見守ってくれているとし、「南無大師遍照金剛」と一言唱えさえすれば、たちどころに空海さんと会うことができるのです。そして、すぐそばに寄り添っていてくださるというのです。同行二人とは、空海さんが人生をともに歩いてくださるということです。目には見えなくても、空海さんはそう願う人のそばには必ずいてくださるのです。延喜二一(九二一)年十月二十七日、醍醐天皇より空海さんに弘法大師の諡号が宣下されました。空海さんが入定されて八十七年後のことでした。